イエスは 同情を 示された 2016年第3期第8課 8月20日
第8課 8月20日 イエスは 同情を示された 「イエスは 舟から上がり、 大勢の群衆を 見て深く憐れみ、その中の病人を いやさ れた。」 (マタイ 14:14)
第8課 8月20日 イエスは 同情を示された 「イエスは 舟から上がり、 大勢の群衆を 見て深く憐れみ、その中の病人を いやさ れた。」 (マタイ 14:14)
第8課 8月20日 イエスは 同情を示された 「イエスは 舟から上がり、 大勢の群衆を 見て深く憐れみ、その中の病人を いやさ れた。」 (マタイ 14:14)
イエス様は人々への同情を示され、 関心を持たれた。御子は旧約聖書 においても憐み深い神様であった。 御子は受肉されても、周りの人々へ の憐みを示された。言葉と自らの模 範を通して、人々にも憐み深くある ように示された。 神の憐み: 神様は私達のうめき声を 聞かれる。 救い主は私達に同情される。 救い主は私達のために 共に泣かれる 人の憐み: 立場を理解して憐れむ 苦しむ者達を慰める。
うめき声を聞く 「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き苦難から常に救ってくださった。」 (詩篇 34:7) 旧約聖書は彼らの問題に対して不満を 言い神様に嘆く人々の話であふれています (しばしば、自らの罪の結果生じた問題)。 神様は彼らを無視されず、彼らの苦難の ために彼らに憐みを示し、同情されました。 (出エジプト記2:23~25、士師記2:16~18、 列王記下13:23、イザヤ54:7-10) 神様は被造物に対して無関心では ありません。 「主は慈しみ深く、憐れみに 満ちた方だからです。 」(ヤコブ5:11) 神様は、私達の叫びを今日も聞いて おられます。彼の同情は信頼することが 出来ます。なぜなら、「主は恵みの業と裁き を愛し地は主の慈しみに満ちている。」 (詩 篇33:5)からです。
「どんな望み、喜び、悲しみ、煩い、恐れもみな神の前に置きましょう。 何を持ってきても重すぎたり、神を疲れさせたりすることはありません。 「どんな望み、喜び、悲しみ、煩い、恐れもみな神の前に置きましょう。 何を持ってきても重すぎたり、神を疲れさせたりすることはありません。 ・・・愛に満ちた神のみ心は、私たちが悲しみを口にすることにさえ 心をいためられます。心を煩わすことはなんでも神に申し上げましょう。 神は諸世界を支え、全宇宙のすべてを支配しておられるのですから、 神にとって大き過ぎて支えきれぬというものはないのです。私たちの平和に関わることであったならばどんなこと、小さすぎてお気づきに ならないということはありません。私たちのどんなに暗い経験も暗すぎてお読みになれないということはありません。またどんなに難問題でも、神には解釈できないということはありません。神の子らのいと小さき者にふりかかる災いも、心を悩ます不安も喜びの声も、くちびるから ほとばしる真剣な祈りも、天の父はことごとく注意し、深い関心を払っておられるのです。 「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(詩篇147:3) 神と各々の魂との関係は、あたかも神がただそのひとりのために愛するみ子を与えられたように、はっきりとした 完全なものです。」 E.G.W. (キリストへの道 11章)
同情的な私たちの救い主 「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。 」(マタイ9:36) 誰かに対して同情心を持つことは共感すること であり、相手の悲しみゆえに悲しくなりその 気持ちを思う事です(同情、憐み、共感)。 同情心を持つことは相手の苦しみを理解する こと以上に、それを和らげ、解放しようとする ことである。 イエス様は人々に対する同情心をお持ちでし た。どれゆえ、彼らを教え、癒し、耳を傾け、 彼らのために祈られたのです。 イエス様は私達の模範です。 私たちの同情は2つの主なる 特徴を示していなければなり ません。真摯であり、活きた (親切の実を結ぶ)もので なければなりません。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 (ローマ 12:15) イエスは泣かれた 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 (ローマ 12:15) もしただちにラザロをよみがえらせようと されていたのであれば、なぜイエス様は ラザロの墓の前で泣かれたのでしょうか。 (ヨハネ11:35) 「イエスは神のみ子であられたが、人性を とっておられたので、人の悲しみに心を 動かされた。主のやさしい、憐みに満ちた 心は、苦悩をごらんになることによって いつも同情をよび起こされる。主は泣く者 と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ばれるので ある。・・・イエスの心は、各時代のすべての 国の人類家族の苦難によって刺しつら ぬかれた。」(エレンGホワイト『各時代の 希望』58章)
「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その 借金を帳消しにしてやった。 」 (マタイ18:27) 彼らの立場を理解する 「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その 借金を帳消しにしてやった。 」 (マタイ18:27) 士師記2:18は、神様が民のうめき悲しむのを聞いて 「哀れに思われた」 ルカ10:33は「憐れに思った」 ある サマリヤ人の物語を語っている。彼は、彼自身を傷ついた 人の立場において彼に同情した。身体や所持品を失う 危険を冒しても、彼は傷ついて倒れていた人を助けた。 ルカ15:20~32は息子を「憐れに思った」ある父親の物語です。 彼は自らの誇りをわきにおき、家族内に重大ないざかいが 起こったとしても、失われた息子の首を抱いて息子として受け入れ 回復させた。 「憐れに思う」ことは相手の苦しみに共に 関わりどのような代償をもっても助けよう とすることである。
もう一人の慰め主 「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。 」(コリント 第2 1:4) キリストが私たちを苦難のうちに慰められると 私たち は他の人々を慰めることが出来ます。 私たち自身の 悲しみを通して学んでいるので、私たちは他の人々の 苦難の中で、より効果的に奉仕することが出来るのです。 教会は慰めを喜んで提供してくれるクリスチャンが多く いる「逃れの町」です。それは、苦難を 味わっている 人々に癒しを与える病院なのです。 慰めることには真摯な同情を伴います。泣くものととも に泣き、困難な時に共にいて、批判 することなく耳を 傾け、必要な時には専門的なカウンセリングを探し、 必要としている人々のためにともに祈ることです。
「傷ついている人にいやしの香油と なるような信仰と勇気のことばを語りなさい。たった一言の親切な励ましのことばで勝利するように力づけられたであろうものを、人生の大きな戦いに弱り果て、落胆してしまった人々が どんなに多いことだろう。われわれは、苦しんでいる魂のそばを通りすぎる時にはかならず、自分自身が神から 慰めてもらった慰めをその魂に与えるようにつとめなければならない。」 E.G.W (各時代の希望 第54章)