第八課 翻譯
中学、高校の6年間にわたって、英語の辞書には随分とお世話になったが、国語辞典を引いた記憶はあまりない。 經過國中、高中長達六年的時間,很常用英語辭典,但不太有查國語辭典的記憶(印象)。
国語の先生が「せめて英語の辞書の半分くらい国語辞典を引いてくれたらな 。どうせ本棚に入れっぱなしで、ほこりをかぶっているんだろうな」とよく嘆いていた。 國語老師經常嘆息著說「至少如果查英語辭典一半左右的時間拿來查國語辭典就好了。反正一直放在書架上也只會佈滿灰塵吧!」
結局、私が国語辞典を引くようになったのは、社会人になってからのことだ。 結果,我開始查國語辭典是我出社會之後的事了。
おそらく自国の言葉の意味をわざわざ辞書を引いて調べることは、そんなに多くはあるまい。 恐怕會特意翻辭典查本國語言意思的人沒有那麼多吧。
考えてみれば、国語辞典というのはきちょうめんである。 試著想想看的話,所謂的國語辭典是循規蹈矩的。
まさか辞書を引く年齢になって「右」の意味がわからない人はいないだろう。 總不會有到了查辭典的年齡還不知道「右邊」的意思的人吧!
しかし、辞書は皆が知っているからといって省略できるわけではない。 雖說是眾所皆知的,但字典並非可以省略。
だから仕方なく書いているというわけでもないだろうが、基本語の定義は「右」を調べたら「左の反対」とあり、 也並非因為沒辦法所以才寫的吧!基本辭彙的定義就如查「右邊」的話就會是「左邊的相反」,
「左」を見たら「右の反対」というふうに、結局何も説明したことになっていないことが多い。 查「左邊」的話就會寫是「右邊的相反」,像這樣子,結果什麼都沒有說明的情況很多。
ところが、いくつか辞書を読んでいると、時には面白い発見もある。 然而,讀了幾本辭典,有時也有有趣的發現。
ある辞書の「右」の定義には「アナログ時計の文字盤に向かった時に、1時から5時までの表示の有る側」とあり、 在某本辭典上「右邊」的定義寫有「面向類比時鐘的數字刻盤時,有標示1點到5點的那一邊」,
別の辞書には「正面を南に向けたときの西にあたる側。人体で通常、心臓のある方と反対側」とある。 在別的辭典上則寫著「正面朝南時相當於西側。以人體來說,通常是與有心臟那一邊相反的那邊」。
基本語の定義にこんな苦心の跡が見えると、辞書の執筆も大変なのだと思う一方で、 在基本語彙的定義上看到如此費盡心血的痕跡,就覺得辭典的執筆也很辛苦,另一方面,
定義や説明の仕方を通してその辞書の個性がうかがえて、親しみさえ覚える。 透過定義或說明的方法可以窺見那本辭典的個性,甚至覺得親近。
辞書を読むもう一つの楽しみは辞書にはない説明を考えて、頭の体操をやってみることだ。 讀辭典的另一個樂趣是思考辭典上沒有的說明,試著動動腦。
言葉の意味というものは、辞書の定義のほかに、実に様々な物事と結びついて、私たちの頭の中に収納されている。 語言的意思這種東西,除了辭典的定義外,其實和各式各樣的事物有關聯,且被記憶在我們的頭腦中。
だから、その取り出し方次第では、別の説明が可能になる。 因此,根據思考的方式,有可能會有別的說明。
例えば、「学校」という言葉。たいていの辞書には、「教師が学生を教育するところ」とあったが、 例如「學校」這個詞。在大致的辭典上定義為「老師教導學生的地方」,
いろいろな辞書にあたったところ、「学生が教育を受ける施設」とか書かれたものを一つだけ発見した。 但查了很多的辭典後,只發現一個被寫了「學生接受教育的設施」這個意思。
このことから大人が作るとどうしても大人の視点で説明してしまうことがわかる。 由此可知,大人來做的話,無論如何都會以大人的觀點來說明。
「刑務所」はどうだろうか。案の定「受刑者を収容しておくところ」と書かれている。 「監獄」又是如何呢?果然寫著「收容受刑者的地方」。
これではあまりに一方的で味気ない。 這樣的話就太過於單方面且無趣。
反対の立場になって作文してみたらどうだろう。 若是站在相反的立場,試著寫作文的話是如何呢?
刑務所は「反省した末に、二度と罪を犯さないと誓いを立てるところ」だろうか。 是監獄為「反省後,發誓不再犯罪的地方」呢?
それとも、「二度と捕まらないように反省するところ」だろうか。 或者是「為了不再被抓到而反省的地方」呢?
視点を変えたとたんに、いろいろな世界が見えて来た。 一改變觀點,就漸漸能看到各式各樣的世界。
反省するどころか、「仲間と次の仕事の相談をするところ」だと言えないこともない。いろいろと言葉の世界を楽しめそうだ。 豈只是反省,也不是不能說「和夥伴討論下次的工作的地方」。似乎能享受各式各樣語言的世界。