「この写真は、どこの写真でしょう」
「この橋は、何のために利用されていたか覚えている人はいますか?」
「ヒントは、この写真も関係があります」 「そうですね。正解は『人見堰』=用水路です。」 「この用水路は『いつ』『誰が』『何のために』作ったのかを覚えている人はいますか?」 「今日は、この人見堰を誰がどのような努力で作ったのかを通して、郷土を愛する心や郷土のために努力することについて考えてみましょう」
「それではどのようにして作られたのかを、資料を見ながら様子を見ていきましょう」
「夏に撮影した柳瀬川の様子です。水量は多いですか、少ないですか? また水田を潤すのに十分な水量でしょうか?」
「磯部の地は平地ですが碓氷川からみると高いところにあり、図を見ても簡単に水を引くことができないことがわかりますね」
「それでも磯部の農民は水を引くために、上流の二つの村(人見村と赤木村=今の西上磯部)にお願いに行った」
「条件1:水路を通すために失った土地から取れるはずの収穫を磯部村から負担すること」 「条件2:取水口や用水路は全て磯部村で管理し、洪水が起きたりしないよう、入り口の管理や、用水路の管理をちゃんとすること」 「条件3:万が一洪水等で被害があった場合は、磯部村で保証すること」 などを約束しました。 ところが実際に工事が始まったのですが、原因ははっきりしませんが、工事は進まなくなってしまいました。 工事は磯部村の人が工事現場の人見村や赤木村まで行っておこなっていましたが、 恐らく人見村や赤木村の人が変な噂を流したり、嫌がらせをして邪魔をしたのではといわれています。
「磯部村の領主は、旗本の仙石因幡守でした。」 「因幡守は自分の領地を幕府に返し、幕府の直轄地にして、幕府の命令で工事を実施してもらおうと考えました」 「他の人の領地であった人見村、赤木村は、幕府の命令には背くことができません。」 「因幡守は磯部の土地は失いましたが、幕府直轄領となったため、工事は1日に約1700人が働いてわずか17日間で完成しました」
「地図で見た人見堰(用水)の様子です」
「鳥瞰図(空中から見た様子)だと、このような様子になっています」
「人見堰のおかげで柳瀬川の流量が増し、安定した水量が確保できるようになりました。」 「この図のように、磯部のあたりだけでなく、今の新島学園の当たりまでの広い地域の田んぼを潤しています。」 「また信越化学(図中の工場記号)や東邦亜鉛の工業用水としても利用されています」