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蘭学事始と黒船来港 幕末、開国時期における通訳者たち
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サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ、羅森 幕末の日米交渉と通訳
幕末から明治期の外国文化流入と通詞 『蘭学事始』に見るオランダ通詞像 ペリーの来航とその前夜 阿蘭陀通詞たちの英語学習 森山栄之助、堀達之助 サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ、羅森 幕末の日米交渉と通訳
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通弁から外国語のエキスパートへ 外国語の専門家から外科医へ 杉田玄白の通詞観
『蘭学事始』に見るオランダ通詞 通弁から外国語のエキスパートへ 外国語の専門家から外科医へ 杉田玄白の通詞観
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『蘭学事始』 『蘭学事始』:江戸後期に書かれた,蘭学に関しての回想録。2 巻。杉田玄白著,大槻玄沢補訂。1815 年成立。69 年(明治 2)刊。和蘭(オランダ)事始。蘭東(らんとう)事始。 『解体新書』:日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書。1774 年刊。当時「ターヘル-アナトミア」と通称された,ドイツ人クルムス著の解剖図譜の蘭訳本を,前野良沢・杉田玄白・中川淳庵ら 7 名が翻訳・編纂。本文 4 巻図 1 巻より成る。 以上は三省堂『新辞林』より引用 以下、縦書きの文章は全て岩波文庫版『蘭学事始』(杉田玄白著・緒方富雄訳 )より引用
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杉田玄白、『解体新書』、『蘭学事始』 http://www.gutenberg21.co.jp/rangaku.htm
rangaku.html
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初期の通弁 徳川御治世の初めのころ、いろいろの事件があって、西洋のことはすべてきびしく禁じられることになり、渡来が許されていたオランダでさえも、その国で使っている横文字をわが国で読み書きすることは禁じられていたので、通詞の連中も、ただオランダ語をかたかなで書きとめるという程度であり、口で覚えていて通弁の用を足していたのである。
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オランダ通詞の発憤 八代将軍吉宗公(よしむねこう)の御時に、長崎のオランダ通詞の西善三郎・吉雄幸左衛門(よしおこうざえもん)と、もう一人、名は忘れたが、こういう人たちが相談して……これまで通詞の家でいっさいの御用を取り扱っているのに、あちらの文字というものを知らないで、ただ暗記していることばで通弁し、いりこんだ多くの御用をどうやら弁じてつとめているというのでは、どうもあまりに不十分である。どうにかして自分たちだけでも横文字を習い、あちらの国の本を読んでもよいようにお許しを受けてはどうか。そうなれば万事につけ、あちらの事情がはっきりわかって、御用も弁じよくなるであろう。現状のままでは、あちらの国の人にだまされるようなことがあっても、それのつきとめようもない……三人はこういい合わせて、どうかこのことをお許し願いたいと、幕府へ申し出たところ、聞きとどけられ、しごくもっともな理由であるとて、すぐに許可になったということである。これこそ、オランダ人が渡来するようになってから百年余り、横文字を学んだ最初だということである。こうして横文字を習い覚えることができるようになったので、西善三郎などは、まず『コンストウォールド』という字引をオランダ人から借り受けて、それを三とおりまで書き写したということである。オランダ人もその精力に感じて、その字引をすぐ西氏に与えたそうである。
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阿蘭陀通詞からオランダ流外科医へ そのころ(17世紀半ば、出島に阿蘭陀商館がいくつもできたころ)、「西流(にしりゅう)」という外科の一家ができた。その家の祖先は、なんばん通詞(つうじ)の西吉兵衛という人で、なんばんの医術を受け伝えて、人にほどこしていたが、なんばん船の入港が禁じられてから後は、オランダ通詞となり、オランダの医術も伝えた。 「吉田流」「楢林(ならばやし)流」などという外科の家は、いずれも、もとオランダ通詞で、オランダの流儀を学んで開業したのである。
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大通詞 吉雄幸左衛門 明和四年か五年のころであろう。カピタンとしてはヤン・カランス( Jan Crans )、外科医としてバブル( George Rudolf Bauer )が江戸へ来たことがあった。 このカランスは博学の人であり、バブルは外科がうまかったそうである。大通詞の吉雄幸左衛門(よしおこうざえもん)(のちに幸作、号を耕牛といった)はもっぱらこのバブルを先生にしたという。幸左衛門は外科がうまいというので名が高く、西国・中国あたりの人が長崎へ行って、その門にはいるものがいたって多かった。
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大通詞、西善三郎の忠告 その年は、大通詞としては西善三郎という人が来ていた。良沢の引き合わせで、わたしは、オランダ語を学びたいという希望を申しのべたところ、善三郎は聞いて、それはおやめなさいという。 あちらのことばを習って理解することはむずかしいことです。たとえば湯水や酒などを「飲む」ということをたずねるには、最初に手まねでたずねるよりしかたありません。「酒を飲む」ということを問うには、まず茶わんでも持ち上げて、これに注ぐまねをし、それに口をつけて、「これは?」と問うと、うなずいて「デリンキ」( drink )と教えてくれます。これが「飲む」ことなのです。 さて、上戸(じょうご)と下戸(げこ)とを問うには、手まねでたずねようもありません。こんなのは、たくさん飲むのと少し飲むのとで区別がわかります。しかし酒を多く飲んでも、酒の好きでない人があるし、少なく飲んでも好きな人があります。これは心もちのうえのことですから、どうにもしかたがありません。
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大通詞、西善三郎の忠告 さて、その「すきこのむ」ということは、「アーンテレッケン」( aantrekken )というのです。自分は通詞の家に生まれ、おさないときから通弁(つうべん)には慣れておりながら、このことばの意味を知らずにいたところ、やっと五十才になって、こんどの拝礼の道中で初めてわかりました。「アーン」とはもと「向かう」という意味、「テレッケン」とは「引く」ことです。「向かい引く」というのは、「むこうのものを手まえへ引き寄せる」のです。酒を好む上戸も、むこうのものを手まえに引きたく思うのです。すなわち、「好む」の意味になるのです。また、故郷を思うのもこういいます。これもまた、故郷を手もとへ引き寄せたいと思う心があるからです。あちらのことばをつきすすんで習うのは、こんなに面倒なもので、わたしのようにつねにオランダ人に接していてさえ、たやすくはわかりにくいのです。ましてや、江戸などにいて学ぼうと思われるのは、不可能なことです。野呂・青木の両先生なども、そのための御用で年々この宿へおこしになり、ひとかたならず御勉強ですが、なかなか、はかばかしく御理解ができないようです。あなたがたもおやめになったほうがよいでしょう。……と忠告した。
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カランスと源内 (平賀源内はオランダ人船長のカランスと親しくなり、たびたび投宿先を訪れ、博物のことなどを尋ねた)
源内は、そののち長崎へ行ってオランダの本や器なども求めて来て、またエレキテルといぅふしぎな器械を手に入れて江戸に帰り、その働きのことも考えて、多くの人をおどろかした。 オランダ語を直接に話して弁じたのではなく、付き添った内通詞部屋付(ないつうじへやつき)といったような人が通弁したのであって、一言一句通じたわけではない。
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平賀源内とエレキテル
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オランダ書翻訳の望み かねて、わたしは平賀源内などに会うたびに、よく話し合ったことであったが、だんだんと見聞すればするほど、オランダの実地研究については感心することばかりである。 もしもオランダの本を直接に日本語に翻訳したら、ずいぶん利益をうるにちがいない。ところがこれまでにそれをやろうと思い立った人のないのは口おしいことだ。なんとかこの道をひらく方法はないものだろうか。江戸などではとてもできぬことだから、長崎の通詞にでも頼んで読みわけさせたいものだ。一冊でもできあがったら、国のための大きな益になるだろうにと、それのできないのを、がっかりしてためいきをつくのは毎度のことであった。
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長崎通詞たちの反応 この業が江戸で唱え始められてから二、三年も過ぎたころ、毎年拝礼に江戸に来るオランダ人の一行の便りによって長崎にも伝わって、蘭学というものが江戸で大いにひらけたことに対して、通詞の人たちは反感を持っていたということである。 いかにもそうであろう。そのころまでは、かれらは通訳をするだけのことで、書物を読んで翻訳をするというようなこともなかった時代で、たとえは「ひやめし」を「さむめし」といい、「一部、一節」とも訳すべき「エーン・デール」( een deel)という語を「一のわかれ、二のわかれ」と和訳して、それで通じて、ことがすんでいたというようなありさまであったようである。もちろん医学や人体の構造のことなどは、だれひとり知る人がないはずである。
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外国語教師としての通詞 玄沢はやがて長崎に行き、本木栄之進という通詞の家に寄宿して教えを受け、いろいろ熱心に修行して江戸に帰った。
安永七、八年のころ、長崎から荒井庄十郎(あらいしょうじゅうろう)という男が平賀源内のところに来た。西善三郎のもとの養子で、政九郎といい、通詞の仕事をやっていた人であった。わたしたちが蘭学を起こした最初のころであったから、かれをわたしの宅へ招き、淳庵などといっしょに「サーメンスプラーカ」(会話)を習ったこともあった。
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大槻玄沢『蘭学階梯』1788年 乾坤2冊25章からなるもので、 乾巻では蘭学のいわれや興隆の次第を略説し、
坤巻で、 文字・数量・配韻・比音・修学・訓詁・転釈・訳辞・訳章・釈義・類語・成 語・助語・点例・書籍・学訓にわけてそれぞれ略述している。本書は入門者用に 編集され、 不完全ではあるがオランダ語法を体系化し広く普及しているもので、 オランダ語に対する世人の関心を大いに高めた。
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志築忠次郎 本木栄之進という人の弟子に志築忠次郎(しつきちゅうじろう)という通詞があった。生まれつき病気がちで、早くその職をやめて他人にゆずり、本姓の中野氏にもどってひきこもり、病(やまい)だからといって他人との交際を断って、ひとり学んでオランダの本に読みふけり、多くの本に目を通して、文学の書を研究したということである。 忠次郎という人は、わが国にオランダ通詞という名ができてから、いちばんよくできた人であろうということである。もっともこの人が引退しないで職にいたならば、かえってこうはならなかったかもしれない。あるいは、江戸でわれわれなかまが、先生もなしにあちらの本を訳することを始めたので、この人もこれに発奮した結果かとも思われる。
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馬場佐十郎 文化の初めのころ、吉雄六次郎・馬場千之助などという人たちも、その門にはいってオランダ語の文法の要領をおそわったということである。この千之助は、いまは佐十郎(真由)と改名し、先年臨時の御用で江戸に召し寄せられたが、それから数年江戸に滞在し、当時御家人に召し出され、ついに江戸に住みついて、もっぱらオランダ語翻訳の御用をつとめ、この学を好むものがみなその読法を教えられることとなった。わたしの子弟孫子もその教えを受けていることであるから、おのおのそのしんずいをつかんで、本格的な訳も完成するであろう。
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馬場佐十郎撰 『蘭語訳撰 』 1810年 豊前中津藩主奥平昌高 ( ) の命により編集された日本語―オランダ語の辞書で、 中津藩にて刊行されており、 一名 『中津辞書』 ともいわれる。 この辞書は日本語辞書、 節用集に模していろは順に配列、 各項目をそれぞれ天文、 地理等19門に分類し、 約7,000語を収録している。 オランダ語の読み方の表記はない。 馬場佐十郎 ( ) は名を貞由といい、 語学の才に恵まれ、 蘭語学書やロシア語学書を著述しており、 本書のまえがきを蘭文で書いている。 尚、 中津藩の家臣神谷弘孝が大いに協力している。
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杉田玄白の通詞観、外国語観 「通弁」に対する軽視 書き言葉重視 外国語学習の目的
読み書きを学ばず、耳で聞き覚えたオランダ語を使ってどうにか通訳を行っている通詞についてはかなり見下した態度をとっている。また、そうした下級通詞の能力にも信用を置いていない。 通訳だけを行って書物の翻訳をしない通詞にはほとんど関心を寄せていない。 書き言葉重視 通詞がオランダの文字言語を学ぼうとしたことについて「当然そうあるべきだ」という論調。 外国語学習の目的 外国語を学ぶ=翻訳によって外国の学術(特に自然科学)を日本に導入する 外国人との対話によるコミュニケーションは念頭にない。
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ペリー艦隊の来港 オランダ通詞と開国
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フェートン号事件 1808年 長崎にオランダ国旗をかかげたイギリスの軍艦が突如侵入し、母国船と思いこんで駆けつけたオランダ商館人を人質に、飲料水や食料を要求した。 幕府は英語の必要を感じ、長崎のオランダ通詞に英語学習を命じた。 軍人としてイギリスに駐在したことのあるオランダ人、ブロムホフが教師となり、英語学習が始まった。 1810年 通詞たちは最初の英会話手引き書『諳厄利亜興学小筌(あんぐりあこうがくしょうせん) 』を完成。 1814年 通詞たちは最初の英和辞典『諳厄利亜語林大成 』を完成。
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ラナルド・マクドナルドの上陸 1848年 北海道の利尻島に米国捕鯨員のラナルド・マクドナルドが上陸。日本にはじめて上陸したアメリカ人(英語母語話者としては、1600年の三浦按針・ウィリアム・アダムスが最初) マクドナルドは長崎に護送される。 森山栄之助ら14名の長崎通詞が獄中にあったマクドナルドから英語の教授を受けることになる。 通詞らは『諳厄利亜語林大成』を手に、ブロムホフのオランダ訛りの英語の発音矯正を受けた。 長崎に来て半年後、マクドナルドは米軍艦に引き渡され強制送還となった。
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浦賀に来港した黒船 1837年 アメリカ商船モリソン号
1837年 アメリカ商船モリソン号 漂流民の引き渡しに来たが、攻撃を受けて退散 1846年 アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル率いる帆船艦隊 コロンバス号・ヴィンセンズ号 米国政府派遣により通商を開くこと目的に来港するが果たせず。 1853年 ペリー艦隊来港 蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号 帆船のサラトガ号・プリマス号
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ペリーと黒船
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ペリー艦隊乗組員および言語 (日本側の交渉団メンバー) 海軍軍人(専門外交官ではない)&中国語・蘭語理解者(日本語少々?)
ペルリ提督(中国海域艦隊司令長官→「東印度支那日本海水師提督」→「特命欽差大臣専到日本國兼管本國師船現泊日本海提督」) ウイリアムス(漢語・日本語通訳。宣教師・中国学者) ポルトマン(蘭語通訳。オランダ人) 羅森(漢語通訳助手。中国人) アダムス中佐(艦隊参謀長)ら[交渉の実務] (漂流民・仙太郎サムパッチが同船、交渉には参加せず) (日本側の交渉団メンバー) 日本側の乗船者:香川栄左右衛門(与力)、堀達之助(主席通訳官)、立石得十郎(二等通訳官)、森山栄之助は奉行所詰
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日本側主席通訳官 堀達之助 1823年~1894年 オランダ通詞中山家の出身
日本側主席通訳官 堀達之助 1823年~1894年 オランダ通詞中山家の出身 父三郎はフェートン号事件で活躍した阿蘭陀大通詞、母は唐通事の陳家から嫁ぐ。 1853年 ペリー来港時に主席通訳官を務める。 ペリー艦隊に対して最初に発した言葉“I talk Dutch”が有名。 晩年は『英和対訳袖珍辞書』を編纂 一郎、孝之、広太郎、寛之助の4人の男子がおり、五代友厚の私的通訳を務めた孝之以外の3人がいずれも通詞に。
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浦賀奉行所通詞 森山栄之助 森山栄之助 1820年6月1日生まれ、父は阿蘭陀大通詞。
浦賀奉行所通詞 森山栄之助 森山栄之助 1820年6月1日生まれ、父は阿蘭陀大通詞。 1848年 数ヶ月間、マクドナルドに英語の発音矯正を受け、マクドナルド送還時には通詞としてプレブル号との折衝にあたる。 1853年、ペリー来港の際には浦賀奉行所詰めの通詞として働く。 1854年、米艦隊来港の折りに英語通詞の命を受けた。 いずれの折衝においても英語の能力は通訳ができるほどではなく、オランダ語に英語を差し挟み、あとは手振り身振りでコミュニケーションするといった程度であったらしい。
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米国側主席通訳官 サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ
1812年、アメリカニューヨーク州ユチカ市で、14人兄弟の長男として生まれる。 1832年、米国対外宣教委員会の中国の広東印刷場(後にマカオへ移転)の監督者になり10年ほど滞在。印刷技術、中国語、ポルトガル語、日本語を学ぶ。アメリカへ一時帰国し、『中国総論』という書物を出版。 1837(天保8)年、米国船モリソン号には20代の若き日のウィリアムズも同乗していた。 1953年、ペリーとともに主席通訳官として来日。アメリカ大統領の国書を受け取るまで日米両国の実務者間では何度も協議が繰り返され、その際の通訳に当たった 。 帰国後『ペルリ日本遠征随行記』を著す。
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ペリー会見の図 『ペルリ提督日本遠征記 』より
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中国人乗組員 羅森 香港から遠征隊に参加した中国人
中国人乗組員 羅森 香港から遠征隊に参加した中国人 ペリー艦隊随行記で『日本日記』、フランシス・L・ホークス編の公式報告書「ペルリ提督日本遠征記」第二巻に次のような前書きがされて付録として採録された。 ペルリ提督の第二回日本訪問(ある中国人が記した日記) 「二度目の日本訪問に向けて中国から出航する際、通訳のウィリアムズ氏の助手として働いていた。非常に教養があり優秀な中国人〔羅森〕がほかの者と一緒に艦隊に加わった。観察眼の鋭い彼は、中国に帰国する際に、日本訪問時に記した日誌は、教養ある中国人の知性をよく表しており、また、周囲のアメリカ人の考えに影響されない東洋人(言葉の壁のためあまり意志の疎通がうまくいかなかった)としての見解が記されているため、合衆国の読者にとっても興味深いものと考え、この巻の付録に付け加えた。」
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幕末日本の外国語 中国語:歴史の古い漢学の伝統によって、口語中国語は話せなかったが、漢文の筆談でかなりのことが通じた。
オランダ語:日本で唯一のきちんと学ばれていた西洋の言語。 英語:阿蘭陀通詞たちが漂流民などに習うことがあったとはいえ、スムーズに話が通じることはまずなかった。
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幕末の日米交渉と通訳 ペリーは通訳としてアメリカ人ウイリアムス、オランダ人ポートマン、中国人羅森を伴っていた。
年二回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に合わなかったため、羅森が英語を漢文に直して江戸幕府役人に意志の伝達をした。 幕府側とペリー側とのやりとりは次のように行われた。 日本語←→オランダ語←→英語 日本語←→漢文←→英語 1856年 下田総領事となったハリスは赴任時にオランダ語通訳件書記としてヒュースケンを同行している。
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中浜(ジョン)万次郎 1827年 土佐に生まれる 1841年 14歳 漂流してアメリカ船に救助され渡米
1827年 土佐に生まれる 1841年 14歳 漂流してアメリカ船に救助され渡米 1852年 危険を冒して帰国。土佐藩主山内容堂 に召し抱えられ藩校の教授となり、アメリカ文化などを講義、 坂本龍馬らに影響を与える。 ペリー来港時には幕府に呼び出されるが、米国在住であったことから正式の交渉通訳はできず、舞台裏で条約の締結に尽力した。 1860年、勝海舟率いる咸臨丸に福沢諭吉らとともに乗船し、訪米期間中は通詞や英語教授などで活躍。 英会話テキスト『英米対話捷径』 を著す。 後に開成学校(東大の前身)の英語教授となる。
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通弁方 中浜万次郎 中浜万次郎像
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中浜万次郎 『英米対話捷径』(1859) 会話(漢文訓読と同じ返り点つき) アルファベット
中浜万次郎 『英米対話捷径』(1859) おまんの おけるをニよき うまきことに一 アイアム ハペ ツ シー ユー イン グーリ ヘルス I am happy to see you in good health. 会話(漢文訓読と同じ返り点つき) アルファベット わたくし よろこぶレことをレ みる三 いづくにて なされたかニ あなた 見一レ かれを フハヤ デッチ ユー シー ヒム Where did you see him? いかが ごきげんレ あなたさま よふ ござるか ハヲ ヅー ユー ヅー シヤァー How do you do Sir? 「ヱー ビー シー リー イー ヱフ ヂー ヱイチ アイ ゼイ ケー ヱル ヱム ヱン ノー ピー キウ アー ヱシ チー ユー フヘー タブリヨ ヱキシ ワイ ジー」 「T」は「チー」、「D」は「リー」。「thirteen」は「サアチン」、「pretty」は「ブロテ」、「misty」は「メステ」で、[ti]の音写についてはチ系・テ系両方(長母音がチ、短母音がテとおぼしい)。
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開国後の日本 横浜に外国人居留地を開き、多くのアメリカ人やアメリカ人に雇用された中国人が横浜に住むようになる。
日本人も横浜に店を持ったり、海外との貿易に従事することが多くなり、国際交流が急激に進んだ。 一方、米国の進んだ科学技術を目の当たりにした政府は、それまでの漢学・儒学・蘭学よりも英学の振興に意を注ぐようになる。
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明治期の英学者 福沢諭吉 新渡戸稲造 夏目漱石
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英国公使付通訳官アーネスト・サトウ 1843 ロンドン市内クラプトン(Clapton)にサトウ家の三男として生まれる
1859 ロンドン大学に進学。ローレンス・オリファントの著書*を読み日本行きを決意する 1861 18歳の最年少で日本語通訳生に任命される 1862 横浜に到着。横浜のイギリス公使館で勤務する 1865 日本語通訳官に昇進する 1872 内縁の妻・武田兼と家族を持ち、二男に恵まれる(長男栄太郎、次男久吉) 1876 通訳畑の最高職、日本語書記官に昇格する
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アーネスト・サトウに関する本 図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官
図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官
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