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第5回(くらい)配付資料 (中世前期) 画像が重く、ウィキに載 せる容量の関係で分割します。

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1 第5回(くらい)配付資料 (中世前期) 画像が重く、ウィキに載 せる容量の関係で分割します。
図書館とメディアの歴史 担当:後藤嘉宏 第5回(くらい)配付資料 (中世前期) 画像が重く、ウィキに載 せる容量の関係で分割します。

2 ゲルマン民族の大移動とローマ帝国の分裂1/4 http://www. geocities. jp/timeway/kougi-49
ゲルマン民族の大移動とローマ帝国の分裂1/4 〔ゲルマン民族の側〕ゲルマン民族は、元来ケルト人が住んでいたヨーロッパ地域に住む。375年アジアからフン族が攻めたため黒海沿岸にいたゲルマン民族である東ゴート族は大移動を始める。その西にいた西ゴート族は415年、さらに西に逃げ、西ゴート王国を成立させ、420年ローマを占領。略奪。東に逃げた東ゴート族は497年、東ゴート王国を建国する。西ゴート族のあと、次々に移動してくるゲルマン諸部族はローマ領内に王国を建て、西ローマ帝国はこれを追認するしかなく、皇帝の直轄地は小さくなる一方であった。

3 ゲルマン民族の大移動とローマ帝国の分裂2/4
そのゲルマン民族の中で力があったのはフランク族。フランク王国はメロヴィング家のクローヴィスが建国。ゲルマン人はアリウス派キリスト教を信じていたが、ローマ人とうちとけあうためにアタナシウス派キリスト教に改宗。その後751年に小ピピンがカロリング朝を成立させる。

4 ゲルマン民族の大移動とローマ帝国の分裂3/4
〔ローマの側〕テオドシウス帝の死(395年)後、彼の遺言で、帝国が2人の息子によって東西に分割統治されて、西側を西ローマ帝国、東側を東ローマ帝国と呼び、これをローマ帝国の東西分裂と呼ぶ。迫りくるゲルマン民族に、後継者争い等で対処できないことのないように、2人の息子をそれぞれ皇帝にした。476年、西ローマの傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ西ローマ帝国は滅んだ。

5 ゲルマン民族の大移動とローマ帝国の分裂4/4
〔イタリア近辺で〕東ゴート王国は建国者、テオドリックが没すると27年に8人の王が代わり、混乱が続き、ローマ帝国の再統一を目指す、東ローマ皇帝ユスティアヌス2世に滅ぼされる。西ゴート王国は711年、イスラムのウマイア朝に滅ぼされる。 ピピンの子、シャルルマーニュが800年、教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝の称号を得る(東ローマ皇帝は皇帝と認めず)。

6 民族移動の図1/2 http://en. wikipedia
民族移動の図1/2

7 民族移動の図2/2 http://www.moonover.jp/2goukan/north-e/consideration3.htm

8 9-11世紀第2の民族移動 その中でゲルマン系のノルマン人は、11世紀に大ブリテン島、南イタリアに行き、ナポリ王国とシチリア王国を建設。南イタリアではノルマン人はギリシア人、ドイツ人と混じり合う(LG61-62)。

9 アラブ文明と書物1 アラビア文明と書物、文字〔G30〕
アラビア文化、645年に征服したペルシア帝国に見出した、ネオ-ペルシア文化に由来。ネオ-ペルシア文化自体がシリア人によってギリシア文化の影響を受けたもの。

10 アラブ文明と書物2 487年、皇帝ゼノン、シリアの学校、エデッサの学校(ペルシア人学校)、閉鎖・・・教授陣はペルシアに迎えられる〔G31〕・・・エデッサについてウィキペディア情報「(現在の)シャンルウルファ、通称ウルファ(Urfa)はトルコ南東部の都市でシャンルウルファ県の県都」。エデッサの学校はネストリウス派が強く、皇帝が閉鎖を命じた。アッシリアの東方教会の中心に。

11 ネストリウス( )の肖像

12 アラブ文明と書物3 ネストリウス派についてルーベンスタイン『中世の覚醒』の記述。
ネストリウスはコンスタンチンノープル司教・・・処女マリアを「神の母」と称することを批判。さらに「生後2,3ヶ月の幼児(イエスの幼児期)は神ではない」という。→人間イエスと神イエスとの二つの本性を認める(R123)

13 アラブ文明と書物4 529年、ユスティニアヌス1世、アテネの学校閉鎖・・・教授陣、ササン朝の君主に迎えられる。ギリシア語の学芸をペルシア語に翻訳〔G31〕 。 ユスティニアヌス1世はプラトンのアカデミアを閉校。「すなわち、哲学的思弁は異端の温床となり、キリスト教徒のあいだの論争に火をつけてきたからだ、と」(R128)。しかし「この頃にはすでに、ビザンツ帝国の独立心旺盛な思想家たちは、キリスト教徒であると異教徒であるとを問わず、メソポタミアかペルシアに逃れていた」 (R128)。

14 ユスティニアヌス1世(483-565) http://upload. wikimedia
ユスティニアヌス1世( ) 東ローマ皇帝 『ローマ法大全』を編纂 単性論を弾圧。帝国の 統一=宗教の統一と考える 東方正教会では聖者に列

15 アラブ文明と書物5 先述のエデッサの学校(ペルシア人学校)もそもそもは、異端とされたキリスト教徒が逃げたところで、そこも追われて、ペルシアのニシビスに移住。そこは古代ギリシア語の学問をアラビア語に翻訳する拠点の一つに(R129)。

16 アラブ文明と書物6 年、バグダッドには100以上の本屋。ただしコーランは手で書くべきものとされていて、19世紀まで手写本だった〔G32〕。

17 東方教会の中心でありつつ、十字軍でアラビアとして襲われたコンスタンティノープル1
9世紀半ば、コンスタンティノープル図書館で「第2のヘレニズム」・・・1世紀半に亘り、古代のテキストを整然と出版する事業に 写本の集積→校閲・定本化→新しい小文字に書き替え→母型として図書館に保管→母型による写本の生産拠点としての図書館〔G34〕 9-13世紀にここで作られた原型本→今日のギリシア研究の基礎文献に〔G34〕。

18 東方教会の中心でありつつ、十字軍でアラビアとして襲われたコンスタンティノープル2
1203-4年、第4回十字軍。コンスタンティノープル陥落(→テッサロニキに書物の生産の中心が移る→1261コンスタンティノープル、一時復権→オスマンによる陥落)→ギリシアの写本がイタリアに流れ、ルネサンスに〔G34〕。 →しかしこの記述は、アラビアを経てルネサンスという伊東俊太郎やルーベンスタインの研究とだいぶ違う説かと。(・・・これについては「中世後期」のスライドで詳述)

19 中世の修道院での写本1/7 ストッディオス修道院
(グロリエに戻る)ギリシア、ビザンツの写本工房・・・図書館、修道院、大学〔G34〕 →(後藤)このように列挙するが、それぞれ独立せずに関係ある場合も多いが、どうなのか? ストッディオン修道院( STOUDIOS MONASTERYストッディオス修道院・463年建設)のテオドロス師Theodore the Studite、 St. Theodore of Studium( )が写字生の工房と図書館管理の方法の本を書く。 同修道院は1204年、十字軍によって破壊され、1290年まで再建されなかった。1453年、トルコによってまた大部分が破壊された(ウィキペディア)。

20 テオドロス師についての補足 テオドロス師Theodore the Studite、 St. Theodore of Studium( )は、 iconoclasm(聖像破壊(主義), 毀(き)像運動)への熱心な反対者であり、それ故彼は皇帝や司教と不仲な立場に位置したと、される。 東方教会の修道院長でありつつ、東方教会ではなくカトリックによって列聖されていて、前ローマ教皇ベネディクト16世の「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話で「聖テオドロス」が取り上げられている

21 テオドロス師の画像

22 ストッディオス修道院の遺構(表玄関)

23 (補論)聖像崇拝禁止について (ウィキペディア「イコノクラスム」より)1/4
730年、シリア出身の東ローマ皇帝レオーン3世は、イコン崇敬を禁じる勅令(聖像禁止令)を発した。これには旧約聖書のモーセの十戒に挙げられている「偶像を作ってはならない」が根拠とされた。 聖像破壊論争によって、既に4世紀から文化的・政治的に亀裂が生じつつあった東ローマ皇帝・コンスタンティノポリス総主教とローマ教皇の関係は決定的に悪化した。800年にはローマ教皇がフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、東ローマ帝国から完全に自立したのである。

24 (補論)聖像崇拝禁止について (ウィキペディア「イコノクラスム」より)2/4
レオーン3世の息子コンスタンティノス5世は、これに反対するものを容赦なく弾圧・処刑したが、論争は収まらなかった。一方、聖像をゲルマン人への布教に用いていたローマ教会も、この決定を非難するとともにそれまでコンスタンティノポリスに送っていた税の支払いを停止し、これによって東西教会の対立が決定的となった。 結局、787年にコンスタンティノス5世の息子レオーン4世の皇后エイレーネー(アテネ出身)が主宰した第2ニカイア公会議(第七全地公会)によって、イコン崇敬の正統性が再確認された。

25 (補論)聖像崇拝禁止について (ウィキペディア「イコノクラスム」より)3/4
一方で東ローマ帝国内では、聖像製作者の拠点で大土地所有者でもあった修道院(帝国の耕地の3分の1が修道院領だったという説もある)をコンスタンティノス5世らが徹底的に弾圧した結果、修道院領が没収され、皇帝領となった。これによって皇帝の権力基盤が強化され、古代ローマ帝国後期から始められた皇帝の専制君主化が完成へ向かうことになった。このため、そもそも聖像破壊運動自体が修道院勢力を弱体化させるためであったのではないか、とする研究者もいる。

26 (補論)聖像崇拝禁止について (ウィキペディア「イコノクラスム」「イコン」より)4/4
聖像破壊運動の焦点は、聖像の使用がキリスト教教義と違背するかどうかにあった。 論点は大きく二つに分けられる。まず聖像使用が「偶像崇拝」に当たるかどうかであり、第二に聖像使用において(仮に偶像崇拝に当たらないとしても)「神を描くこと」が可能かどうかである。前者については、聖像の使用は像そのものの崇拝ではなく、像が表すものの想起のためであるとされる。後者については、三位一体説だと可能となる。神の3つの位格の1つである子なる神においては、人としての姿を現したナザレのイエスに関する限りで、この描出不可能性がむしろ神の側から破られていると考えうるからである。

27 (補論)ル・ゴフによる 東方教会と西方教会の関係
ビザンツ帝国、首長は皇帝。ギリシア正教会の総主教座もおく。ローマ教皇への優越を主張。 西方教会(ローマカトリック)は7世紀、ビザンツ帝国から分離。11世紀に教皇権の独立を決定的に。 ビザンツ帝国はギリシア語、ローマ帝国はラテン語に、言語の分離(LG163)。

28 補論 字体の変化1 字体の変化 オンシャル(アンシャル体)から草書体(ただし英語だとcursiveで、筆記体になる)へ←速く書く必要性から→小文字の源流〔G35〕 835年から、小文字の写本の登場(助祭用聖福音集)。

29 補論 字体の変化2

30 中世の修道院での写本2/7 写本工場・公開図書館から修道院へ1/2
アミアヌス・マルケリヌスによる図書館の墓碑銘(378年頃)「諸々の図書館は墓のように、永遠に閉ざされた」〔G38〕 ( Marcellinus Ammianus、325年/330年 - 391年以後)は、ローマ帝国後期の軍人・歴史家。31巻からなる『歴史』を書く。 ) ギリシア・ローマの衰退→手写本工場の閉鎖・公共図書館(?訳語変「公開図書館」)の閉鎖、個人用図書室の閉鎖、略奪→ギリシア・ローマの文献の多くを消失。 奴隷の工房から修道院へ。ただし遅々たる復活の歩み

31 中世の修道院での写本3/7 写本工場・公開図書館から修道院へ2/2
修道士たちに聖書を読むことを厳しく命じた聖ベネディクトの修道戒律の影響で、図書館をもつ修道院がふえてゆき、そこには写字僧のアトリエが付設された(マソンほか『図書館』22)。 ル・ゴフによると、聖職者にとって、写字室は、芸術作品の制作の場であり、教育の場でもあった。写字生は祈祷書を作成し、自ら絵を施し、古代の写本の筆写もした(LG251)。

32 中世の修道院での写本4/7 カシオドルス(485-580頃)による ヴィヴァリウム(540-550年頃)
東ゴート王テオドリック( )の宰相カシオドルスによるヴィヴァリウム・・・中世最初の写本工場〔G39〕 そこで彼が定めた戒律は、修道院図書館をつくりあげるために、教父ならびに宗教外の著作についても写本をつくる義務を設けている(マソンほか21)。

33 テオドリック王の像

34 カシオドルスの肖像(古代の項目でも別の画像を挙げてある)

35 長倉 久子「ヴィヴァリウム - 古代ギリシア・ローマの遺産を守った図書館 」 南山大学図書館カトリック文庫通信No.16,2001より1/2
状況判断において優れたカッシオドールスは、異民族の支配者と東ローマ帝国の皇帝との間の不穏な空気を逸早く感じ取っていた。近い将来、ローマは戦火に包まれるかも知れない。 そう判断したカッシオドールスは、自分の所有していたヴィヴァリウムの地に修道院を建て、そこに書物を集めたのだった。この図書室に収められたのは、聖書やキリスト教関連の書物のみならず、古代ギリシア・ローマの凡ゆる分野の書物だった。

36 長倉 久子「ヴィヴァリウム - 古代ギリシア・ローマの遺産を守った図書館 」 南山大学図書館カトリック文庫通信No.16,2001より2/2
それというのも、早くから彼はキリスト教大学創設の夢をもっていたが、ゴート族とビザンツの睨み合う空気の中で、その夢を実現できないでいたからである。大学のカリキュラムの構想はすでに彼自身が作り上げていたが、教師を見つけえない状況の中で、修道士たちのために書物を集めたのだった。 →中世後期に教会から大学ができる状況の先駆というかはしりを目指したのか。

37 バトルズによるカシオドルスの補足 「カシオドルスは世俗的権威をめぐる教会の権力闘争の圏外に出て「観想的生活」を求め、カラーブリアの自分の土地に僧院を建てて、のちの中世の宗教的儀式のパターンを設定した」(バトルズ『図書館の興亡』76) 「ヴィヴァリウムに集められた福音書の初期の版は、それらの福音書がキリスト教の聖書へと移行してゆくうえで重要なものとなる」

38 カッソンによるカシオドルスの補足 カシオドルスの『教程』は、手写本を写すのは修道士にとっての高尚な活動であること、写される図書は深さと広がりをもつべきことが記された。 この『教程』は外にも広がり、他の修道院図書館も幅の広い収書を行い、相互の貸し出しを行い、研究図書館に近い存在になった(カッソン206)。

39 フラウィウス・マグヌス・アウレリウス・ カッシオドルス・セナトル(485年 - 585頃)の ウィキペディア情報
一般にカッシオドルスとして知られるローマ人の政治家、著述家である。東ゴート王国のテオドリック大王に仕えた。・・・ウィウァリアム(修道院)はたとえばベネディクト会のそれのような厳格な修道会の掟には従っていないようにみえるが、もとよりカッシオドルスの「綱要」は僧侶の学びを手助けするものであった。そのために、「綱要」の大部分はウィウァリウムの書架で利用することを想定して書かれているのである。「綱要」の第1部はキリスト教文書を扱っており、「詩編講解」(Expositio Psalmorum)とあわせて読むことが意図されている。2冊目は自由七科を扱い、大量のギリシャ語とラテン語の文献が示され、さらなる研究のために、筆写と翻訳のための写字室がウィウァリウムには備えられていた。(ウィキペディアより)

40 中世の修道院での写本5/7 アルクィンとカロリング朝ルネサンス
カール大帝に仕えたアルクィン( )の下で、カロリング朝ルネサンスに写本工場が増える(G41)。

41 アルクィン(Alcuin、735年? - 804年5月19日)
イングランドのヨーク出身の修道士、神学者である。・・・長年ヨークにある学校の教師として勤めたのち、カール大帝のフランク王国の教会制度と教育制度の相談役を務めた。769年からはトゥールの司教となり、聖マルティヌス(サン・マルタン)修道院の院長であった。・・・アルクィンは修道院学校(abbey school)を優れたモデルにし、多くの学生がそこに集まった。そして、彼は非常に美しい多数の写本を書いた。 ・・・アルクィンはラテン語の知識をフランク王国に伝えた。ウィキペディア情報。

42 アルクィンの画像

43 カロリング朝について(1/2) カロリング朝を継いだカール大帝( ;フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝 800年 - 814年)は、西ヨーロッパの大部分を支配し、一大帝国を築き上げた。800年にローマ教皇から戴冠を受け、ここに形式的に西ローマ帝国が復興したとされる。 カールはキリスト教に基づく統治を進めるには、聖職者の資質を高めることが必要と考え、各地からアーヘンの宮廷に人材を集めるとともに、教育を振興した。特に古典研究を進め、俗語化していたラテン語が純化され、ラテン語教育が盛んになった。また、各地に教会付属の学校が開かれた。こうした文化の隆盛を「カロリング朝ルネサンス」と呼ぶことがある。イングランドから招かれた神学者のアルクィンがカロリング朝ルネサンスの中心人物として有名である。

44 カール大帝像

45 カロリング朝について(2/2) カール大帝の後も文化振興は継続され、西フランク王国のシャルル2世(西フランク王840年-877年、西ローマ皇帝875年-877年)までに大成された。ギリシャ語文献のラテン語訳などで活躍したエリウゲナ、歴史家のヒンクマールなどがよく知られている。この頃になると、文化活動は王宮のみでなく各地の修道院に広まっていった。各地の修道院でラテン語文献の筆写が行われ、その過程で文字を統一する必要からカロリング小字体が作成された。だが、その後はノルマン人の侵入にともなう混乱などにより文化活動は停滞期に入った。 カロリング朝において初めて、古代ギリシャ・ローマの文化、キリスト教、ゲルマン民族の精神が融合したと評される。ヨーロッパ統合が進む今日、カロリング朝ルネサンスがヨーロッパ文化の原点という評価もされている。

46 ル・ゴフによるカール大帝評 「シャルルマーニュは、このローマ・カトリックのヨーロッパを、ギリシア正教の東ヨーロッパから分離することに力を尽くしました。そしてシャルルマーニュは、ギリシア正教で起こっていた、芸術における聖像破壊(イコノクラスム)という危機がこちら側のヨーロッパで荒れ狂うのを避け、神、聖人、人間を絵画や彫刻で表現する立場をとりました。ユダヤ教やイスラム教とは正反対の立場です。この決定はヨーロッパ美術と人間中心主義の発展にとって重要であり、人間中心主義は美術の中でも表現されつづけました」(LG59)。

47 中世の修道院での写本6/7 写本工場の色々 3種の写本工場〔G43〕 ベネディクト会・・・図書館の役目も果たす
シトー会・・・個室。自分たちの著作も著せる(シトー会はベネディクト会の分派)。 聖マルタン修道院(DUどこ?)・・・回廊式。廊下での仕事故、寒い季節は大変。 たいていは修道士の仕事。写字の修道士は収穫期を除いて畑仕事を免除〔G43〕。 世俗の書記を雇う場合も。写本以上に彩色を。

48 中世の修道院での写本7/7 写本工場の時代から学校の時代へ
写本工場の時代  550(-600)~(1300-)1350 ローマ時代、蛮族の地だった北ヨーロッパに書物の文明が到来〔G44〕。 中世後期、修道院の重要性の低下、学校の重要性の増加/教会からの相対的独立・・・写本工場の役割、低下〔G44〕。

49 オングによる学術ラテン語の問題(1/3) 話されていたラテン語が俗語(ロマン諸語)に分化(AD550-700)
700年頃、ロマン語の国民、古いラテン語理解できず状態(O232) 日常語は数十マイル離れても通じず。 学校教育はラテン語を維持(学術ラテン語) 話し言葉から完全に自立した言語 「ラテン語は、学術ラテン語、つまり、書かれたものによって完全に統御された言語になった。それに対して、新しい日常語であるロマン諸語は、言語がつねに発展するようなしかたで、つまり、声としてのことばとしてラテン語から発展していった」(O233)。

50 オングによる学術ラテン語の問題(2/3) 「学術ラテン語は、書くことがもつ力、つまり、書くことによって話しを生活のコンテクストから孤立化させるそうした書くことがもつ力と、そうしたコンテクストからの孤立化のもつ比類ない多産さとを示す著しい実例である」(O )。 母語の深層から切り離されているからこそ、ラテン語は抽象的思考に向いており、スコラ哲学を発展させ、スコラ哲学後の近代科学も用意した。

51 オングによる学術ラテン語の問題(3/3) とはいえ、学術ラテン語が声の文化から切り離されていたのではない。「というのも、古典期における教育の理想は、有能な書き手をつくりだすことではなく、レートールやオーラートル、つまり、公衆のまえで話す人〔演説家〕をつくりだすことだったからである。学術ラテン語の文法は、このようなかつての声の世界に由来していた」(O234)。 したがって、中世以降十九世紀まで大学の論文審査も書いたものではなく、口頭審査によってのみ有能さを測定した(O237)。

52 シャルティエ等による、 中世前期の読書の概要(1/2)
東西ローマ帝国での読み方の違い(C26) ビザンツ世界・・・音読維持 西洋ラテン中世・・・黙読か呟くような声での読書 修道院の共同生活・・・声の調子を落とさざるを得ない(C27) 書物・・・理解、熟考、暗記の対象 冊子体・・・参照や再読を容易に 筆写の作業それ自体が祈り

53 シャルティエ等による、 中世前期の読書の概要(2/2)
聖なるものの徴としての書物・・・敬虔な行いの対象、救済のための手段、相続される遺産 黙読と音読の併存(音読は典礼文を読む際など)、並びに囁くような声での音読という中間形態(C29)

54 シャルティエ等による、 中世前期の読書の個別論議(1/6)
古代から引き継いだ中世前期の読書・・・4つの文法学の作業 1)読解・・・文字、音節、語、文の同定と、意味におうじてアクセントを付けて読む 2)改訂・・・自分の手にした写本のテクストを訂正する、ときにテクストの改変も。 3)解釈・・・修辞や文体の技法を調べ、内容を解釈する 4)判断・・・テクストの文学的道徳的な価値評価

55 シャルティエ等による、 中世前期の読書の個別論議(2/6)
分かち書きしていない時代において、この1)読解が重要で、その手がかりが品詞等を分析する文法学であった(C116)。

56 シャルティエ等による、 中世前期の読書の個別論議(3/6)
古代の黙読・・・弁論術の影響で朗唱が重視される→黙読は、テキストの意味を把握するための、テクストの事前検討にのみ使われる。 中世の典礼・・・この朗唱の習慣を残す(C117)。 瞑想と結びつく、音読・・・語についての聴覚的筋肉的記憶が、瞑想の手がかりに。

57 シャルティエ等による、 中世前期の読書の個別論議(4/6)
6世紀以降、黙読に注意。「ベネディクトゥス会修道院規則」では他人を妨げない自分自身のための読書の必要性が示される。 分かち書きについてはアイルランドの写字生たちが始めたが、当初は単語ごとというより、語群のまとまりごとに分かち書きされた(C124)。 9世紀、句読法の発達・・・写本の校訂者がテクストの意味の確定にも介在する。どれとどれが異なった概念か、どれとどれが同格かといったことが句点によって決まるので(C131)。

58 ヌルシアのベネディクトゥス(480-547)の肖像http://upload. wikimedia
ヌルシアのベネディクトゥス( )の肖像

59 シャルティエ等による、 中世前期の読書の個別論議(5/6)
ラテン語以外の本について。 アイルランド語のもっとも古い本、7世紀の『カンブレーの福音書講話』 ロマンス語8世紀の『ヴェロナの謎』

60 『ヴェロナの謎』

61 The Veronese Riddle is a riddle, apparently half-Italian, half-Latin, written on the margin of a parchment, on the Verona Orational(典礼書の一つ), probably in the 8th or early 9th century, by a Catholic monk from Verona, a city in the Veneto region, in Northern Italy. It was a very popular riddle in the Middle Ages and has survived into dialects to date. Discovered by Schiapparelli in 1924 it was considered for a long time the first document ever written in the Italian language.

62 シャルティエ等による、 中世前期の読書の個別論議(6/6)
もっとも竹内成明などは、中世初期は王も聖職者も文盲が多かったという(竹内170チポラ『読み書きの社会史』に依拠) ビザンツ世界はギリシア語が維持され、中世にも古代と同じような読書が成立していたが、西欧世界は読書が教会・修道院に閉ざされていた。しかも修道院内言語のラテン語と世俗のロマン諸語(ラテン語の方言)とが分裂し、ロマン諸語の書物がほとんどなかった

63 中世前期におけるアリストテレスの移植、復活の問題1/4 -アウグスチヌスの考え方1/2
東西ローマ帝国の対立(R94)   統合されて調和の取れた宇宙というアリストテレス哲学よりプラトンに適合 アウグスティヌス( )  人間の知識は神の「照明」によってのみ与えられる。理性のみでは獲得できない、合理的な思考のみで、宇宙の謎が解けるというアリストテレスは間違ってる(R96)

64 アウグスティヌス像

65 中世前期におけるアリストテレスの移植、復活の問題2/4 -アウグスチヌスの考え方2/2
あるいは、人間が生来堕落していると考えない点で、アリストテレスは間違っている。 →庶民には科学は有害無益という考え方(R98) 教父アウグスチヌスのこの考え方により、学問が修道院に引き籠もる(R99) キリスト教徒・・・天国を見上げるか内心を見つめる(ピーパーやアレントのいう「観想」)

66 中世前期におけるアリストテレスの移植、復活の問題3/4
アウグスティヌス没(430)後、700年間、西ヨーロッパでギリシア哲学が人々の記憶から薄れ、アウグスティヌスの著作を、福音書に次ぐものとして人々が位置づける。 アウグスティヌスはプラトン、プロティノス(ネオプラトニズムの哲学者)に負っているので、700年間、プラトンが優位でアリストテレスは「正体のはっきりしない伝説的人物」(R99)と化していた。

67 中世前期におけるアリストテレスの移植、復活の問題4/4-ボエティウスの役割
このようななか、「ローマ帝国の権威が崩壊したときに、西ヨーロッパにアリストテレスの著作の一部がかろうじて残っていたのは、主としてボエティウスの努力の賜だった」(R100)と。

68 ボエティウス(480-525)の活躍1/6 ボエティウス・・・ローマの執政官の家の出 プラトンのアカデミアの出身
東ゴート国王テオドリックに仕える(前述、カシオドロスの仕えた主でもある) 《キリスト教の教義の曖昧さの回避に、プラトン、アリストテレスが有益と》 文化の翻訳能力に長ける

69 ボエティウスの像1/2 http://upload. wikimedia
ボエティウスの像1/2

70 ボエティウスの像2/2 http://www. logoslibrary. org/boethius/eutyches/4
ボエティウスの像2/2

71 ボエティウスの活躍2/6 アリストテレスの多くの著書をラテン語に訳す
行政官としては、東ゴート王国政府をローマ化すること、異文化の行政的翻訳が託された(R104)。具体的には好戦的な各地の東ゴートの指導者を訓練すること。それと東ローマ帝国の行政官に、ゴート人の関心の有り様を理解させること(R105)。

72 ボエティウスの活躍3/6 東ローマ帝国と西ローマ帝国の分断・・・東ギリシア語、西ラテン語、しかも西ローマ帝国から、カシオドロス自身の仕える東ゴート王国などのゲルマン王朝に。ギリシア語を解する人が西ヨーロッパにいなくなる→カシオドルス、プラトン、アリストテレスのラテン語訳をする契機。

73 ボエティウスの活躍4/6 アリストテレスの6冊の論理学書『範疇論』『命題論』『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁書』、キケロの論文数編、新プラトン主義者ポルフュリオスの著作。アリストテレスの註解書数冊。ギリシア哲学の手法を用いたキリスト教護教論。『哲学の慰め』 東ローマ皇帝が教皇と組んで、テオドリックを陥れようとしていて、テオドリックの宮廷高官のローマ人も彼らの内通しているという噂(R )。

74 ボエティウスの活躍5/6 ボエティウスの友人、アルビヌスにあらぬ嫌疑。
アルビヌスを庇ったボエティウスも524年、逮捕され、牢中で『哲学の慰め』を書く。後任の宰相がカシオドルス。投獄、1,2年後、殺される。 ボエティウスの著書を保管したカシオドルスはローマに大学を作るよう教皇に持ちかけ、適わないとなると、政治から隠居し、ヴィヴァリウムを作った(R114)。

75 ボエティウスの活躍6/6 ただしルーベンスタインの評価するボエティウスであるが、伊東俊太郎は彼の翻訳はさほど評価していないようである。

76 ボエティウス『哲学の慰め』(岩波文庫)より1/6
全体が哲学の女神と獄中の筆者との対話。 (死と幸運、不運について)「お前のこれまでの喜びと悲しみとの数と程度を比較考量して見たなら、(獄に囚われ処刑されうる)お前は今なほ幸福であることを否定し得まい。そして若しお前が、当時喜ばしく思つたものが消失したからといつてそれだけの理由でお前自らを不幸たと思ふなら、それは不幸と思ふべき何等の理由にもならない。何となれば、今お前の悲しく思つてゐるものもやがて又過ぎ去るものだから。・・・

77 ボエティウス『哲学の慰め』(岩波文庫)より2/6
・・・たとえ稀に幸運が永く続いたにしても、生命の最後の日は、その永く続いた幸運の最後の日でもある。お前が死ぬことに依つて幸運を見捨てるのと、幸運が消失することに依つてお前を見捨てるのと、どう違ふと思ふのか」(54)。

78 ボエティウス『哲学の慰め』(岩波文庫)より3/6
(死と名声の永続の問題)「その時代に有名であつた如何に多くの人々が、ただ伝記者の無かつたがために忘れられたことであらう。だが又たとへ伝記があつたとしても、それが伝記者もろとも時のたつにつれて次第に埋れて行くとすれば、つひに何の益する所があらうか。お前たちは、未来に於ける名声といふことを考へる時に、自らを不滅ならしめ得ると信ずるかも知れない。だが若し、永遠といふ無限の時間を思ひ浮かべるなら、お前は、お前の名前の継続などといふことを喜び得るであらうか。

79 ボエティウス『哲学の慰め』(岩波文庫)より4/6
一瞬間は一万年に比較すれば、その両者共有限な時間だから、非常に小さく出はあるが兎に角或る比を保つ。然るに一万年の数も、否たとへそれを幾倍したものでも、無限な永遠とは凡そ比較にならない。・・・だからいくら長く続いた名声でも、それを無限な永遠と考へ合せて見れば、ごく小さなものだといふよりはむしろ、全然無であるやうに見えるのである」(77-78)。

80 ボエティウス『哲学の慰め』(岩波文庫)より5/6
(人それぞれの固有の領域の自律性とその枠を壊す富や権勢欲との対比)「強さを身に具へてゐる人は、誰が見ても強い人であること疑ひない。又、足の速さに恵まれてゐる人は速いこと明かである。同様に、音楽は音楽家を作り、医術は医者を作り、弁論術は弁論家を作る。すなはち各物は、本性上自己に固有なものを発揮し、それと反対な結果は混入させない。否、進んでさういふ反対的なものを排除して了ふ。然るに富は飽くなき貪欲を制することが出来ない。又勢力は自分自身を支配し得ない。」(73)。

81 ボエティウス『哲学の慰め』(岩波文庫)より6/6
(知恵を仕上げる契機としての困難な運命)「「だから」と彼女はつづけた、「賢者は運命との闘ひに引入れられることを嫌がつてはならない。丁度、勇士が剣戟の響きにたじろいでならぬのと同様に。といふのは、困難が却つて両者にとつて機会に-後者にとつては名誉を広める機会に、前者にとつては知慧を仕上げる機会になるのである。実際又徳も、自らの力に依つて諸々の艱難を克服するが故に徳と呼ばれるのである」」(198)。


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