教育者ドン・ボスコのように 慈愛に満ちた教育によって 喜びの福音を若者に伝えよう

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教育者ドン・ボスコのように 慈愛に満ちた教育によって 喜びの福音を若者に伝えよう ストレンナ2013     「主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」      (フィリピの人々への手紙4・4) 教育者ドン・ボスコのように 慈愛に満ちた教育によって 喜びの福音を若者に伝えよう

全体の構成 予防教育法の再発見 1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す 2.よりよく専門的に養成されて、若者に立ち帰る ストレンナ2013: 「教育者ドン・ボスコのように慈愛に満ちた教育をとおして 喜びの福音を若者に伝えよう」   予防教育法の再発見  1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す  2.よりよく専門的に養成されて、若者に立ち帰る  3.心の教育 サレジオ家族の具体的歩み  1.喜びの福音  2.慈愛(愛情)の教育  3.教育は心のこと  4.誠実な市民、善いキリスト者の育成  5.サレジオのヒューマニズム  6.予防教育法と人権  7.読むべき資料

ストレンナ2013 2013年の目標: 教育者ドン・ボスコに近づく。 p1 ストレンナ2013  2013年の目標:  教育者ドン・ボスコに近づく。 p1 →ドン・ボスコが若者たちに何を提供したかったのか、若者たちの心の扉を開くために、彼らの信頼を勝ち取るために、そして人間として、キリスト者として堅固な人格を育成するために、どのような方法を用いたのか、探究する。 →予防教育法をより深く研究し、現代に合わせて新たにする。 今回も、私たちのアプローチは単に観念的なものにとどまりません。一方では、私たちの時代の感覚や要求に従い現代化させるため、サレジオの教育法をより深く研究することが確かに必要です。昨今、私たちが召命を生き、遂行しようとする社会的・経済的・文化的・政治的・宗教的環境は、大きく変わりしました。他方、私たちの父のカリスマに忠実であるために、ドン・ボスコが示した教育と司牧の内容と方法を、私たちが自分のものとすることも同様に必要なことです。今日の社会の状況において、私たちはドン・ボスコが生涯を賭けたように人生を献げ、若者と共に、若者のために働きながら、ドン・ボスコがそうであったように、聖なる教育者となるように呼ばれています。

予防教育を現代において実践するために。p2 →まずはドン・ボスコのアプローチの歴史的理解を心がける。 =1)若者、一般市民、教会、社会、修道生活へのドン・ボスコの関わり方はどのようなものだったのか分析する。 2)最初の日曜日のオラトリオの子どもたち、ヴァルドッコの小神学校、サレジオ会およびサレジオ会以外の神学生、宣教師へのドン・ボスコの教育はどのようなものだったのか、分析する。 二十世紀には、教育、心理学、宗教、政治、文化、哲学、技術、人口動態の分野で次々と、数多くの“革命”が起きてきました。 ドン・ボスコの言動をただそのままコピーすることはできない、してはならない。 歴史的に分析したうえで、現代にどう生かされるか検討する。

最初のオラトリオに見られる基本要素=予防教育法 A) 柔軟な組織。教会と、地域社会、庶民階層の若者たちを結ぶもの。 B) 庶民の世界を大切にし、評価する。 C) カトリック教育の教えに従い、宗教を教育の土台とすること。 D) 教育と信仰教育の統合(信仰と生活の統合)。 E) 教育は心・精神を啓蒙するための不可欠な手段であるという確信。 F) 限られた時間や手段の中、あらゆる可能な形で差し出される教育、そしてカテケージス(要理教育):学校教育の機会に恵まれなかった人々のための識字教育活動、就職斡旋、週日の間の同伴、相互扶助のグループのための活動提供など。 G) 余暇の時間をよく活かし、大切にすること。 H) 教育の特徴である慈愛(愛情)、より一般的にはキリスト者の生き方としての愛

予防教育法を現代の言葉に翻訳するために。P4-9 →三つのアプローチ。 1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 2.よりよく養成されて、若者に立ち帰る。 3.心の教育。 私たちが過去から受け継いだものを正しく理解できたなら、次は、予防教育法の大いなる洞察と可能性を現代の言葉に翻訳する必要があります。P3 →その基本理念、概念、初めの指針original guidelinesを現代化すること

1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 「愛徳」の実践の問題。P4-7 →・施しをするという愛徳のとらえ方にとどまり、緊急事態への対処に終始することは、偽善的サマリア人”の枠の中の活動にとどまる危険性。 ・慈善や救援の事業がもはや古くさい時代遅れな方法であり、現代社会、民主主義国家においてはもう必要ないと言われてきた。しかし今日、世俗の世界においても、キリスト教のボランティア活動の社会的役割が認識されるようになっている。 実際、今日、道徳意識が進化したことによって、改善の必要がある政治的側面を見落とし、貧困の原因や、皆が常に批判する社会的状況を生み出すような悪の構造に建設的影響を及ぼすことのないような支援には限界のあることが、認識されるようになりました。施しをするという愛徳の理解にとどまり、緊急事態への対処に終始することは、活動が“偽善的サマリア人”の枠の中にとどまる危険性を意味しています。そこにいくらか良い意図あったとしても、表面的な連帯の表現にとどまります。人々の飲まなければならない苦い杯に砂糖をふりかけながら、一部の人の安寧を優先する社会モデルに沿って活動していることになるからです。P5   いわゆる第三の非営利部門、小教区や信徒の会、修道会、教区などから生まれた活動です。

1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 「誠実な市民」p5 →第23回総会 教育の分野・目的のために大切なものとして、「愛の持つ社会的次元」、「若者を政治にかかわる務めと参加に向けて教育すること」を強調。 「この分野はどちらかと言えば私たちからなおざりにされ、否認されてきた」。 ドン・ボスコが「主の祈りの政治」だけに関わると決めていたことを、私たちは一方で理解できますが、他方で、教育に関するドン・ボスコの当初の選択、そしてドン・ボスコのもとで働く教育者たちのその後の実践として、“政治”を自分たちの生活から除外するという厳密な理解により、ゆだねられた青少年の育成において、大切な社会‐政治的次元が条件づけられ、限界のあるものとならなかったかどうか、自問しなければなりません。ドン・ボスコが共存しなければならなかったさまざまな政権のもたらす困難とは別に、体制に順応し、社会と関わろうとしない孤立主義に陥りがちな、十分な見識も、歴史的・社会的状況についての知識もあまりない教育者たちにも、困難の原因があったのではないでしょうか?P5 23回総会→「政治的参加」とはすなわち「組織的にまた制度的に共通善を促すために、経済的、社会的、立法的、行政的、文化的な、さまざまで複雑な活動」を指す。

1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 ドン・ボスコによる「社会‐政治‐教育的選択」の現代的な再確認に向けて前進しなければならない。p6 =社会・政治的意識を養い、それによって、不可侵の人間的・キリスト教的価値と権利に絶えず依拠しながら、自らの生き方を社会の共通善のために働く使命とするように若者を育成するということ。 =教育の社会的側面を再評価する。 このことは、何らかの政党の目的に結びついた、ある種のイデオロギーに基づく活動主義を進めるということではなく、社会・政治的意識を養い、それによって、不可侵の人間的・キリスト教的価値と権利に絶えず立ち戻りながら、自らの生き方を社会の共通善のために働く使命とするように若者を育成するということです。したがってこのことは、この領域において、より一貫性のある、具体的な実践をもって働くことを意味します。p6

1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 「サレジオ会、サレジオ家族、管区、グループ、支部が、この点に関してできるかぎりのことをしているか、自問する必要があります。若者との連帯は、単なる愛情表現、自己贈与のジェスチャーにとどまっているでしょうか、それとも現実的な効果のある、合理的な応答、若者や社会のより弱い立場にある人々のニーズに即した、意味のある応答になっているでしょうか?」p6 教育の問題に真剣に関心を持つ人は、政治的手段を通して働きかけようとします。多くの場合、市場原理が支配する、都市計画、観光からスポーツ、ラジオ・テレビといったメディアに至るまで、あらゆる分野で、人々が教育について考えるようにするためです。

1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 「善いキリスト者」とは?p6 →人間としての召命を目覚めて生きることができるよう人々を助ける方法を見いだし、それを提供すること。 信仰者が最も価値のある貢献ができるのは、まさにこの領域において。 「神の子としての召命は、余分な選択肢などではなく、人間存在に備わった召命です。この召命は、その本質そのものによって、真に、完全に人間であるための不可欠な条件、被造物であるという特質からあふれる、最も深い憧れを満たすものです」。 キリスト者として、人間とは何かをとらえ、伝えていくこと。  実際、信仰者は、人間存在と他者との関係が、被造物であるという条件によって決定づけられることを知っています。造られた存在であることは、人間が劣っている、あるいは依存的な存在であることを示すのではなく、神の無償の、創造の愛を告げます。人は、自らの存在そのものが贈りものです。人は神との関わりのうちにあり、その関わりの中で、自分の役割を果たします。神との関係の外では、人のいのちに意味はありません。人が漠然と知覚し、探し求める「他者」は、絶対的な方ですが、遠い、抽象的な存在ではなく、人のいのちの源、ご自分へと人を呼ばれる方です。  はじめは理性によってとらえることのできる人の真の本質は、キリストにおいて、完全な光のもとでとらえられるようになります。イエス・キリストはそのみ言葉によって、そして何よりも、神の子であるという意識を示される人‐神のいのちの力によって、人が自己の存在と目的とを完全に理解する道を開かれます。  イエス・キリストにおいて、私たちは神の子となり、現代世界の中で神の子として生きるように呼ばれます。これが人の真実、賜物であり、人はその十全な意味を少しずつ理解していかなければなりません。神の子としての召命は、余分な選択肢などではなく、人間存在に備わった召命です。この召命は、その本質そのものによって、真に、完全に人間であるための不可欠な条件、被造物であるという特質からあふれる、最も深い憧れを満たすものです。

1.「誠実な市民」と「善いキリスト者」を再び打ち出す。 ドン・ボスコの「善いキリスト者」を現代においてどのように実現したらよいか? p7 →「単一宗教の社会」の環境にあった伝統的な教育を、現代の多元主義を前に、開かれた、同時に批判精神のある教育へと、どうしたら変えられるか? →責任感のある、自由で成熟した決断を行うことのできる、人とのコミュニケーションに開かれた個人、体制に順応することなく、建設的批判精神をもって社会構造に積極的に関わる個人を育成することを目指す教育。

2.若者に立ち帰るために、より専門的な学びを ドン・ボスコの生き方(若者への優先的な愛)を現代において実践するために。P7-8 →私たちが現代の文化の“心”、今日のメンタリティーや行動の仕方を知ることが求められる。 現代の若者を私たちは知っているだろうか? 奉仕職に関して、私たちの専門性の質はどのようなものか。 若者たちが暮らす、地域、また地域の外における「関係性のネットワーク」と、私たちはどのようにつながっているか。 私たちが個人として、また共同体として自らのいのちを「奉献」する対象である若者たちは、何者なのか? 彼らは何を求め、何を望み、また私たちは(そして神は)彼らに何を願っているのか? 現代の若者を私たちは知っているだろうか? 現代の若者の問題が、量、質において、150年前にドン・ボスコが前にしていたものと大きく異なることを私たちはわかっているでしょうか? 奉仕職に関して、私たちの専門性の質はどのようなものでしょうか。教育計画の理論的考察のレベルで、また司牧実践のレベルで。このことは、その創造性、適応性、柔軟性、悲観的でないことのうちに証明されます。確かなことは、「インカルチュレーション」を達成するために、各修道会の総会文書、各グループの最も重要な指針の文書、総長書簡に頼るだけでは十分ではないということです。 c. 今日、教育への責任は、共同で力を合わせ、皆が参加するもの以外にはありえません。若者たちが暮らす、地域、また地域の外における「関係性のネットワーク」と、私たちはどのようにつながっているでしょうか? このグローバル化した教育ネットワークの中の参加と協力の形に、私たちは具体的にどのように貢献しているでしょうか? 私たちは、第三者と相談しながら可能な解決策について考えているでしょうか d. 教会が、若者たちを前にしてどうしてよいかわからないことが時にあるとすれば、今日のサレジオ会やサレジオ家族にも、同じことが言えるのではないでしょうか?

3.心の教育 「今日、若者や人々は、サレジオの教育者の心の中にいるでしょうか、心の中に入ることができるでしょうか? 彼らはそこに何を見いだすでしょうか?」p9 →官僚的な、能力はあるけれど中味のないコミュニケーターを見いだすでしょうか、あるいは、神秘体の中でイエス・キリストの恵みに生かされている、豊かな、全人的な人間性 etc.を見いだすでしょうか? →「サレジアンの心のうちに、キリストの恵みの豊かさと深さが見いだされないなら、サレジオ会とサレジオ家族は前進を止めることになるでしょう。」

サレジオ家族の具体的な歩み p10-15 ドン・ボスコの教育を知ることから出発し、前述の考察に照らしながら、2013年のストレンナから導かれるサレジオ家族の主な焦点と課題は、次のとおり。 1.喜びの福音 2.慈愛(愛情)の教育 3.教育は心のこと 4.誠実な市民、善いキリスト者の育成 5.サレジオのヒューマニズム 6.予防教育法と人権 7.必読の資料

1.喜びの福音 p10 ドン・ボスコは若者が抱く幸せへの望みを受けとめ、快活、遊び場、祝い、といった言葉で若者たちの生きる喜びを表現した。しかし、本当の喜びの源として、神を指し示すことを決してやめなかった。 善の勝利への信頼 人間的価値を評価する 日常の喜びを教育する ドン・ボスコの弟子たちは皆、日々、「喜びの神」に自らを全面的にゆだね、「喜びの福音」を言葉と働きによってあかしするので、いつも喜びに満ちている。 a) 善の勝利への信頼:ドン・ボスコは書いています。「最もかたくなな少年たちの心にも、柔らかい部分があります。教育者の最初の務めは、その感受性のある部分、少年の心の中の、打てば響く琴線を見つけ出し、それを活かすことです。」(MB V, p.237) b)人間的価値を評価する:ドン・ボスコの弟子は、この世界の良いものを自分のものとし、時代を嘆きません。良いものは何でも受け入れます。特に、それが若者や普通の人々に訴えかけるものである場合に。 c)日常の喜びを教育する:創り主が私たちの歩む道に日々、送ってくださる多くの人間的喜びを、学び、学び直し、単純さをもって味わうには、忍耐強い教育の働きかけが必要です。   ドン・ボスコの弟子たちは皆、日々、「喜びの主である神」に自らを全面的にゆだね、「喜びの福音」を言葉と働きによってあかしするので、いつも喜びに満ちています。弟子たちは、聖パウロの勧めを心にとめながら、この喜びを広め、キリスト者の生き方の幸い、祝う心を教えることができます。「主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピの人々への手紙4・4)

2.慈愛(愛情)の教育。 p11 ドン・ボスコの慈愛(愛情)を教育理念にとどめるべきではなく、私たちの霊性の本質的側面として認識しなければならない。 →本物の愛。神からその力を汲むから。 相手と対話したいという望みを生じさせる愛、信じる心を目覚めさせ、信頼と深いコミュニケーションへの道を開く愛。神の現存に目覚めさせる力を持つ愛。 →熱心な霊的努力を要求される愛。 その場にいて、そこにとどまる意志、自己放棄と犠牲、愛情における貞潔と自制的態度、対話への参加と、最もふさわしい時と最良の方法を特定するために忍耐強く待つこと、相手をゆるすことができること、そしてつながりを新たにできること、時には負けることができ、無限の希望をもって信じ続ける人の柔和さ。 ドン・ボスコの慈愛(愛情)は、疑いようもなく、その教育法の特徴であり、現代も有効なものであると私たちは考えます。それはキリスト教的な環境においても、あるいは若者たちがほかの宗教を持つ場においても、今なお変わりはありません。 しかし、これを教育理念にとどめるべきではなく、私たちの霊性の本質的側面として認識しなければなりません。 実際に、これは本物の愛です。なぜなら、神からその力を汲むからです。単純さ、心からのもの、忠実さとして表される愛です。相手と対話したいという望みを生じさせる愛、信じる心を目覚めさせ、信頼と深いコミュニケーションへの道を開く愛(「教育は心のこと」)、広がっていき、家庭的精神を創り出す愛、そこでは共にいることが美しく、豊かにされる、そのような愛です。 教育者にとってそれは、熱心な霊的努力を要求される愛です。その場にいて、そこにとどまる意志、自己放棄と犠牲、愛情における貞潔と自制的態度、対話への参加と、最もふさわしい時と最良の方法を特定するために忍耐強く待つこと、相手をゆるすことができること、そしてつながりを新たにできること、時には身を引くことができ、無限の希望をもって信じ続ける人の柔和さ。修徳(自己節制)がなければ本物の愛はなく、祈りのうちに神と出会うことがなければ修徳もありません。p11

3.教育は心のこと p12 「教育は心にかかわることであり、その心の唯一の主は神である」 →・「ドン・ボスコの教育は、ドン・ボスコの全活動に行き渡っています。そしてその全活動は、ドン・ボスコの人格の反映です。そしてドン・ボスコのすべては、最終的に彼の心に集約されます。」(ブライド) ・「ドン・ボスコにとって、心の人であるということは、少年たちの善益のために全面的に奉献され、いのちの最後の息に至るまで、彼らのために全力を尽くすことを意味していました。」(ルッフィナート) この少年たちへのドン・ボスコの愛は、具体的な時宜にかなった形で表されました。ドン・ボスコは、少年たちの人生・生活全体に関心を向け、最も隠れたものを洞察しながら、より緊急な必要に気づきました。彼の心が青少年に全面的に献げられていたと言うことは、すなわち、彼の全人格、知性、心、意志、力、その存在のすべてが、若者のために善をなすこと、その全人教育を進めること、若者たちの永遠の救いを望むことに向けられていたと言うことです。したがって、ドン・ボスコにとって、心の人であるということは、少年たちの善益のために全面的に奉献され、いのちの最後の息に至るまで、彼らのために全力を尽くすことを意味していました。

人間として、キリスト者として人生を豊かに生きるために、若者が必要としているすべてを言い表そうとした言葉。 4.誠実な市民、善いキリスト者の育成 p13 人間として、キリスト者として人生を豊かに生きるために、若者が必要としているすべてを言い表そうとした言葉。 →衣服、食事、住まい、仕事、勉強、自由な余暇の時間、喜びと友情、積極的な信仰、神の恵み、聖性への道、参加とダイナミズム、社会と教会における自らの場。 「社会の中で教育への影響力を持つ存在になるということは、次のことを含みます:教育問題、教育政策、社会・文化における教育の質などに対し、目覚めた意識を持つことです」。

5.サレジオのヒューマニズム p13 一人ひとりの人間・被造物・歴史的出来事のあらゆる肯定的な事柄に、ふさわしい価値を認めること。 →ドン・ボスコはこの世に存在する真に価値あるものを、特にそれが青少年にとって好ましいものであるとき、受け入れるように導かれた。

6.予防教育法と人権  p13 「サレジオ会は、若者の全人的救いをおいてほかに、存在理由はありません。ドン・ボスコがその時代にそうであったように、私たちも傍観者ではありえません」。 →福音と私たちのカリスマは、若者の全人的救いのために人権の問題に取り組むよう私たちに求める。 →予防教育法と人権とは相互的に働き、豊かにし合う。  予防教育法は、人権の擁護・促進の運動のために、類ない革新的アプローチを提供します。これまで人権の擁護は、すでに人権が侵害された“事後”に糾弾するという働きでした。予防教育法は、人権擁護の取り組みに予防教育を提供します。言葉を換えれば、“事前”の提案や行動です。  予防教育法は人権擁護の取り組みに、福音の霊性に触発された人間観、人権の土台として、一人ひとりの尊厳という客観的事実を見る人間観を提供すると、私たちは信仰者として言うことができます。一人ひとりは「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的立場、国民的若しくは社会的出身、財産、門地(家柄)その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく」 尊厳を認められます。 p13

7.必読の資料 p14-15 ドン・ボスコの教育体験と教育上の選択がよく描き出されているドン・ボスコの著作 →・『青少年の教育における予防教育法』  ・「ローマからの手紙」  ・ドメニコ・サヴィオ、   ミケーレ・マゴーネ、   フランチェスコ・ベスッコ   の伝記 実際、私たちの愛する創立者、父の教育論、教育の取り組みにおける感性、青少年を中心におき、自らの養成のために青少年自身が率先するように助ける際、何がドン・ボスコにとって大事であったか、教育が成功するために創り出すべき雰囲気を、私たちが知ることができるように書かれました。

結びの言葉 p15-17 「私たち皆、一人ひとり、子どもの人生に影響を与えます。大切なのは、私たちが今日、誰かの人生にどのように触れるかということです。単純に生きましょう。惜しみなく愛しましょう。深く思いやりましょう。やさしい言葉で語りましょう」。(17)        2012年12月31日‐2013年1月1日ローマ 総長 パスクアール・チャーベス・ビラネエバ