キリスト教倫理(THE312) -いのちの倫理について- 中央聖書神学校 2008年度後期
いのちの倫理 人間の本質的願望 その結果 無病息災・不老長寿 生命医療科学技術の進展の要因 生命の神秘への不遜な介入 生命操作の可能性への飽くことなき挑戦 本能的な欲求充足に賭ける生命倫理を無視した「科学のための科学」的探求への誘惑 生殖の神秘解明には貢献、生命の本質に到達不可能
いのちの倫理 神が創造した自然の法則 自然の法則の書き換えを可能にした科学 ①人間の生命の誕生 ②人間の生命の終焉 ①人間の生命の誕生 ②人間の生命の終焉 人が土足で踏み込んではならないはずの神聖な領域・厳粛な事実 人間の決断と判断を許さぬ聖域 自然の法則の書き換えを可能にした科学 「生と死」を左右するための決断と判断を課せられたあまりにも重い人間の責任
いのちの倫理 医療施設経営との癒着 人間性の尊厳崩壊 生命操作 無病息災 不老長寿 人間の本質的願望
いのちの倫理 「神が与えて下さったいのちへの操作を人間が行うことは、正当化されるのであろうか?」 (神田健次) 「神が与えて下さったいのちへの操作を人間が行うことは、正当化されるのであろうか?」 (神田健次) 教会に問われている21世紀の重要な課題 「生と死」の聖書的理解の推進 生命操作に対する適切な条件の提示
20世紀→21世紀 相対性理論・量子論 原子核 細胞核 先端医療技術 物理学 生命科学 生命現象 自然現象
医学の倫理 「ヒポクラテス(BC460-375)の誓い」 日本の医道-「医は仁術なり」 現代医療倫理 医師集団の一員としての倫理綱要 相互扶助、治療行為の逸脱を禁じる誓約書 日本の医道-「医は仁術なり」 旧来の道としての医術 現代医療倫理 医師と患者の関係重視・医師の倫理的判断から、医療社会学的分析、患者の意思決定の重視へと転換
「いのち」と生命倫理 一般的「いのち」の理解 ビオス(bivo)的理解の上に立った身体的概念 「生命倫理」はバイオエシックス(Bioethics) 生命に関する医療技術はバイオテクノロジー(Biotechnology) 身体性としての人間の生物学的側面を基礎として構築された学問・技術
「いのち」と生命倫理 生理的意味 自然生 社会的意味 命 文化的意味 宗教的意味
「いのち」と生命倫理 神との関係 関係生 いのち 人々との関係 自分との関係 自然との関係
「いのち」と生命倫理 単独の生命体 いのち 縦軸の関係体 横軸の関係体
二人称の「いのち」 一人称の「いのち」 「いのち」と生命倫理 「いのち」 神の愛に息吹き 神への愛で成長し 人への愛で深まり 人からの愛で躍動する 二人称の「いのち」 一人称の「いのち」
「いのち」と生命倫理 神から授与されたいのち 部品と見られる臓器 いのち 共有するいのち 身体に宿る命 命 zwh bivo
“I and Thou”『我と汝』 生命倫理 主体 客体 主体 功利的関係 相互関係 インフォームド・コンセント リビング・ウイル 命の尊厳 1878-1965 “I and Thou”『我と汝』 マルチン・ブーバー 医師の良心に全面依存 先端医療技術 生命倫理 I and Thou 我と汝 I and It 我とそれ 主体 客体 主体 功利的関係 相互関係 インフォームド・コンセント リビング・ウイル 命の尊厳 自己決定
生 死 「生」と「死」 神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創2:7) あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創3:19)
「死」と生命倫理 単独の生命体 死 縦軸の関係体 横軸の関係体
「死」と生命倫理 自然死 尊厳死 安楽死 患者 医師 死に対する主体 (キリスト教倫理学資料参照)
「ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです...死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました」 (ロマ5:12,14)
いのちの倫理について 先端医学技術の発達とその影響 輸入されたもので日本独自に創造したものではない先端医学技術 日本の文化的土壌にもたらす様々なきしみ 生と死が未知の領域であった過去の時代 生と死を巡る複雑な問いかけ いつでも、何処でも、誰にでも適用できる解答発見不可能な時代 出生前診断、人工授精、脳死、臓器移植、安楽死、尊厳死 (NCC生命倫理委員会『いのちの倫理を考える』新教出版社、2004)
いのちの倫理について 「いのち」の取り扱いについて 神が与えて下さった「いのち」への操作を人間が行うことは、正当化されるのであろうか? それが人間には技術的に可能であるとしても、どの様な条件での「生命操作」への決断が許容されうるのか? (木村利人「先端技術とバイオエシックス」『生と死』日本基督教団出版局、2000年、p.34)
いのちの倫理について 生と死の問題 「いのち」は単に生理的な実在なのか? 他人に決めてもらって良いのか? 自分自身の生き方に関わるのではないか? 教会は共同体である教会に解答の糸口があるのか? 教会は「いのち」の尊厳について社会に発信する責任があるのか?
いのちの倫理について 生命倫理(バイオエシックス) 生命科学技術の急速な進展に倫理的な疑問を投げかけた1960年代の有識者たち 「生命の神聖さ(Sanctity of Life)」と「生命の質(Quality of Life)」を基底に従来存在しなかったバイオエシックスが確立 1978年上智大学大学院の新しいカリキュラムとして「生命倫理」が開講
規範科学 哲学 神学 心理学 社会学 倫理学 論理学 数 学 社会科学 化 学 物理学 形式科学 経験科学
超学際的 生命 倫理学 哲学 神学 心理学 社会学 経済学 政治学 医学・薬学 工学 論理学 数 学 化 学 物理学 規範科学 社会科学 工学 論理学 数 学 社会科学 化 学 物理学 応用科学 超学際的 形式科学 経験科学
いのちの倫理について 生命倫理(バイオエシックス)の活動領域 人間の生と死に関する分野 人間の生理・衛生に関する分野 人間の精神に関する分野 人間の政治・社会に関する分野 人間の文化・経済に関する分野 人間の宗教に関する分野 人間の生活環境に関する分野...等々
いのちの倫理について 先端医学技術 生命倫理
いのちの倫理について 先端医療技術 いのちの神聖 人間の尊厳 人間の部品化 非人間化
いのちの倫理について 生と死の問題 「死・障害」を可能な限り遠ざけようとする風潮 「生」と「死」の聖なる緊張感の喪失 「生」と「死」への医療技術の不遜な介入 人間を物理的・生理的存在としか見なさない傾向 人間性の尊厳崩壊への道程
いのちの倫理について 「死ぬこと」と「死なせること」 「死ぬこと」-自然死・老衰・自然病死 「死なせること」-4つの「死」 ①人工妊娠中絶 ②新生児安楽死 ③末期患者の安楽死 ④臓器移植(誰かの死を前提)
いのちの倫理について 「生」と「死」 健康と長寿を本能的に求める人間 先端医学知識と技術の急速な進歩 「生まれること」・「生きること」・「死ぬこと」に介入し始めた科学技術 「生」と「死」に対する選択肢が提示 その選択肢の是非を問う「生命倫理」
いのちの倫理について 「生」と「死」 人類共通の生理的現象の「生」と「死」 キリスト教会に課せられた責任 人類共通の生命倫理構築は可能か? 聖書的な生命倫理を提示すること 実生活に適用してゆくこと
いのちの倫理について 人間 肉体 ? - = 死
いのちの倫理について 人から肉体を取り除くと 何も残らない 何かが残るかも知れない 神に出会う可能性ゼロ 神と出会うわずかな可能性 人間にとって最も本質的なものが残る 神と出会うことのできる可能性大
いのちの倫理について 生 死 時 間
いのちの倫理について 死 生
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ロマ6:8)
いのちの倫理について 生 死 永遠 有限
「いのち」の科学的理解 科学の領域 生殖に関する神秘の仕組みの解明 人間の生命誕生過程の人工的再現 「ヒト・ゲノム」(生命の設計図)の解明 「ヒト」のクローン個体作製 「いのち」の本質への科学的介入は許容れるか?
「いのち」の聖書的理解 わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。(イザ43:4) 「いのち」と聖書的人間論 神の意思によって創造されたもの 「いのち」には存在する目的・意義がある 「偶然」と「自然発生」を拒否する聖書的見解 人間の創造の価値 「非常に良かった」(創1:31) わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。(イザ43:4)
幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は...その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。 (箴3:13、16-17)
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。(申5:32-33)
聖書的人間観(いのち) 「bivoとしてのいのち」 「yuchとしてのいのち」 「zwhとしてのいのち」 人間の生存の期間、生涯、生活、財産など現象面のいのちを表現 (ルカ8:14、マコ12:44、1テモ2:2) 「yuchとしてのいのち」 人間のいのちの営みの中心を表現、息、生命、魂など包括的な意味 「zwhとしてのいのち」 死と対比させ、いのちそれ自体、生きていて活気のある状態、永遠のいのち (ルカ12:15、ロマ8:38、2コリ4:10、1ヨハ2:25 )
「いのち」と生命倫理 新約聖書の「いのち」理解 ビオス(bivo):ゾーエー(zwh)とは異なり、人間の誕生から肉体の死を終極とする有限的な「いのち」 ゾーエー(zwh):死との対比で考えられる「いのち」(ロマ8:38、ヤコ4:14) 常に神との関係の中で語られている「いのち」 自然生とは異なり神から賦与された「いのち」(使17:25) ビオスの枠を超えた「いのち」
「からだ」と生命倫理 ギリシャ的理解 ヘブライ的理解 一般的理解 還元論的理解 霊魂、精神を入れる容器 霊魂・精神+肉体(二元論的理解) 霊魂・精神・肉体は一体(一元論的理解) 一般的理解 精神と肉体のギリシャ的理解 還元論的理解 心・精神を実体と見ず、肉体の産物とみる主義
還元論的人間理解 「物質は精神を説明できる」 利根川進教授 「脳を解剖してみてもその中に思考は見つからならない。」 M. ミンスキー
あなたがたのからだを、神に受け入れられる(喜ばれる)、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの(なすべき)霊的な礼拝です。 (ロマ12:1)
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 (1コリ10:31) あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 (1コリ6:20) こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 (1コリ10:31)
聖書的人間観 人間総括的存在表示-「からだ(swvma)」 人間の外面性の表示-「肉(sa;rx)」 マタ5:29、6:22、27:52、使9:37、1コリ15:44 人間の外面性の表示-「肉(sa;rx)」 1コリ15:39、2コリ10:3、ピリ1:22... 人間の内面性の表示ー「霊(pneu‘ma」 ヨハ3:8、2テサ.2:8、黙11:11... 人間の内面性の表示ー「魂(yuch;)」 マタ2:20、ルカ12:22、使20:10...
聖書的人間観(からだ) 人間人格全体を指す「からだ(swvma)」 新約聖書における人間理解の最も重要な用語 パウロの人間観の中核を表現 ギリシャ的な二元論的人間観に対する旧約のヘブライ的な一元論的人間観を基底にした人間観 人間の外面と内面を統合した概念
人間はソーマ(swvma)をもつのではなく、むしろ人間はソーマ(swvma)である。 聖書的人間観(からだ) 人間はソーマ(swvma)をもつのではなく、むしろ人間はソーマ(swvma)である。 (R.ブルトマン『新約聖書神学II』新教出版社,1966)
聖書的人間観(かたち) 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創1:27) 「神のかたち(eijkw;n qeou)」 人間に賦与された神聖な尊厳性 医療行為をする側と医療を受ける側とのあいだに投げかける重要な人間の構成要素 優性思想・性差別の克服に連動する神学概念 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創1:27)
聖書的人間観(かたち) 「神のかたち(eijkw;n qeou)」 人間人格全体を指す「からだ(swvma)」に類似した表現 霊と肉の統一体としての人格的霊性 人間に与えられた可能性と責任 自然界を支配する務めを委託された人間 自然界に対する責任(環境倫理) そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創1:26)
聖書的人間観(土の塵) 「土の塵」 神が創造した人の「鼻にいのちの息」を吹き込む以前と以後のからだはどう違うのか? 「神のかたち」は息を吹き込まれる以前に出来上がっていたかどうか? 人間の人格総体を表すswvmaではなく、むしろ単なる肉体を表すsa;rxに近い素材 「神のかたち」に似た「生きもの」となった人間 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (新共同訳創2:7)
「いつでもイエスの死をこの身(swvma)に帯びていますが、それは、イエスのいのち(zwh)が私たちの身(swvma)において明らかに示されるためです」(2コリ4:10)
聖書的人間観(いきる) 人 関係の中に成立する人間の「生」
聖書的人間観 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創2:18) 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。(創1:27a) 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創2:18) 神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創1:17b)
聖書的人間観(いのち) 「いのち」は単独の生命体でありつつ、関係の中にはじめて息づいている存在である。 (『いのちの倫理を考える』p.17)
ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。(伝4:9-10)
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリ12:26-27)
聖書的人間観(生と死) 人の「生」 人の「死」 自然発生ではない神による原創造 関係の中に成立する「生」 関係を生きる「いのち」 「生」が関係的であると同様「死」も共有されるべき体験
「私は考える、ゆえに私はある」 聖書的人間観(人間の存在知) 身心二元論 "I think, therefore I am" 「私は考える、ゆえに私はある」 "I think, therefore I am" (Cogito, ergo sum). René Descartes ( 1596-1650 ) 身心二元論
聖書的人間観(人間の存在知) 自分が生きているということを実存的に認識するのには: 思索知(デカルトのような) 分析知(医学者、生物学者など) 身体知(関正勝-生命倫理学者) 「わたしは痛む、わたしは苦しむ、それ故にわたしはある。」(p.45)→2コリ1:3-6 痛みを共感し、共有するキリスト教会共同体
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使17:28) 聖書的人間観(人間の存在) 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使17:28)
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 (1コリ10:31) あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 (1コリ6:20) こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 (1コリ10:31)
むすび 生と死の当事者として我々、どの様な生を生きてきたか? 自分の生は何に価値をおき、どの様な価値によって支えられてきたか? 何が自分のいのちの尊厳を支え、保ってきているのか? 使徒パウロの勧めに、これらの問いかけを重ねると,どの様な回答になるだろうか?
むすび 「人間は、生きてきたようにしか死ねないのです。」 江尻美穂子、津田塾大学名誉教授
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者
も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 (ロマ8:38-39)
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリ12:26-27)
「生」と「死」 創世記の創造記事から、神が息を人間に吹き入れることではじめて、人間は生きた者になった。(創2:7)だからその息が無くなると、霊が肉体から分離し、神の元に返る。(創3:19)脳死は霊が去ったことを意味するという。1)脳機能の停止は人間の生命の特徴の消失であって、霊の離反を示す。2)脳死後の筋肉運動や心臓の鼓動は一時的である。3)脳死後の医療行為は人工的であり、再生操作でいのちは戻らない。
(養老孟司『日本人の身体観の歴史』法蔵観,1996) 「脳死、中絶、末期医療など生命倫理にかかわる問題には身体論がその基礎を与えるはずである。」 (養老孟司『日本人の身体観の歴史』法蔵観,1996)
仏教と生命倫理 身体が滅びると精神・魂も滅びるか。 他の生物を食用にすることを禁止する殺生禁断をどう取り扱うか。 人間と動物をどう区別するか。 (小松美彦『宗教と生命倫理』ナカニシヤ出版2005)
生命倫理 生命倫理:社会的、指示敵、経済的な観点を含み込んだ、規範的な評価・規制システム 生命科学を操作する医師・科学者・技術者の個人的な道徳観念を当システムではない その捜査に当たって遵守すべき手続きの適切さを示すガイドライン 生命倫理:生命テクノロジーの操作に倫理的な墨付きを与える学問(p.26)
梅原猛 臓器移植法の制定に影響を与えた仏教的言説 脳死を死と認めない。 臓器移植に積極的でない理由を展開。「自然を尊ぶ日本人の感性」に基づいた道徳判断 動植物と人間とを区別せず、自然との共生を重んじる神道・仏教 自然と道徳の深い結びつき
自然と道徳 自然な死を重んじる仏教 自然な死に至っていない脳死 生命に畏敬を払う臓器移植を可とする仏教 「菩薩行」と見るドナーの臓器提供 仏教的利他行としての臓器提供 臓器の提供者、授与者、と贈与物共に生への執着を離れた「三輪清浄」を問う仏教
三輪清浄 臓器を提供する贈与者がたとえ清らかな心から発した行為であっても、授与者が自らの延命を願う余り、他者の死を待つ気持ちをいささかたりとも抱くならば不浄となり、その思いは不浄行であり、布施行は成立しない。(p.30)
臓器移植 臓器移植をすれば助かるという「知」の領域に、人の死を願ってはならないという宗教的道徳観を強要する権利があるか。 自己犠牲という道徳的な物語で臓器移植を論じるのは不当 臓器移植は高度な医療技術に支配され、布施行・利他行という道徳観が介入できる領域ではない。(中島,p.31)
自己決定 リビング・ウイル:あらかじめ臓器を提供する意思表示 自分が所有する不動産を処分する遺言のように、自分の身体を自分の所有物と見なして良いのか 脳死という科学技術によって作られた死を「自分の死」として受け入れて良いのか
臓器移植と解脱 臓器の布施(提供)は、贈与者と授与者両者にとって解脱を目指す修行、無我の修行と見なす仏教 「感謝と無心の修行として、臓器提供し、脳死を如実に知見するのが仏教的な知恵」(中野東禅、p.33)
功利主義と義務論 功利主義 義務論 末期癌患者に「静養すれば治る」という嘘 癌だという意識も恐れもなく死亡 「嘘」は善 嘘をつかないということは、人間であるならば誰もが守るべき義務 人間の信頼関係の根本 (今井,p.6ff)
功利主義と義務論 功利主義 義務論 社会的な行為の判断に適する 行為の結果を重視 個々人の倫理的行為の判断に適する 行為の動機を重視 (今井,p.6ff)
電球が切れたのは誰の目にも分かる。傘が破れたのも分かる。臓器が使い物にならないかどうかは、患者自身には分からない。病院には説明する責任がある。人の体は電球でも雨傘でもない。(「編集手帳」『読売新聞』06/11/07)-宇和島徳洲会病院で万波(まんなみ)誠医師が病気に冒された腎臓を移植した件から