イエスは人々 と交わられた 2016年第3期 第6課 8月6日
第6課 8月6日 イエスは人々と交わられた 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』 と不平を言いだした。」 (ルカ 15:1,2) 第6課 8月6日 イエスは人々と交わられた
第6課 8月6日 イエスは人々と交わられた 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』 と不平を言いだした。」 (ルカ 15:1,2) 第6課 8月6日 イエスは人々と交わられた
第6課 8月6日 イエスは人々と交わられた 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』 と不平を言いだした。」 (ルカ 15:1,2) 第6課 8月6日 イエスは人々と交わられた
人々の利益を望まれる者として交わられた。 キリストの方法だけ 「人の心を動かすには、キリストの方法だけが真の成功をもたらす。人間として歩まれた間、 救い主はその人たちの利益を図られ、同情を 示し、その必要を満たして信頼をお受けに なった。そして『わたしについて来なさい』と ご命令になった。」 E.G.W. (『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』128,129頁) 人々の利益を望まれる者として交わられた。 人々に同情された。 彼らの必要を満たす ように仕えられた。 人々の 信頼を 勝ち取られた。 「私に従いなさい。」と彼らに命じられた。 今週は、イエスが救おうとされる人々とどのように 交わられたかを学びました。そうすると、どのように 彼の方法に従い、模倣するとよいかがわかります。
失われ、見出され 「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで 捜し回らないだろうか。」 (ルカ 15:4) イエスは罪人と交わっていると非難された。(ルカ 15:2) 彼は3つのたとえ話を用いて、神様が私たちを愛し、 皆が救われていることを説明なさいました。 ルカ 15:3-7 迷子になり 見出された羊 ルカ 15:8-10 失われ、 見出された硬貨 ルカ 15:11-32 失われ、 見出された息子 イエスは自ら探しもとめ(サマリヤの女)、あるいは彼のところに来たとき (ザアカイ)、あらゆる機会を用いて罪びとを救いに導こうとなされている。
罪びとと一緒に食事をする 「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人などと一緒に食事をするのか」。 (マタイ 9:11) パリサイ人たちは、罪びとに触れることで 汚れた者となりたくなかった。一方、 キリストは彼らと社交生活を分かち合 い、人々と交わられた。 イスラエルの指導者たちが彼を非難した とき、イエスはユダヤ教の信仰の主要な 柱を彼らに説明しなければならなかっ た。「わたしが喜ぶのは愛であっていけ にえではなく神を知ることであって焼き尽 くす献げ物ではない。」 (ホセア 6:6) 見かけや儀式は彼が他の人々をどのよ うに扱うか以上に大切ではなかった。 それを達成するため、私たちは謙虚に 聖霊の導きによって、誤る者たちに対し 憐み深くなければならない。
「読者よ、あなたは、さ迷い出た者を、何人さがしあてておりに 連れ戻したことであろうか。見込みもなく、見栄えもないと思われ る人々に背を向けることは、キリストがさがしておられる魂を ないがしろにすることであるのを、自覚しておられるだろうか。 あなたが、彼らを顧みないその時こそ、おそらく彼らがあなたの 同情を一番必要としている時である。 […] 彼らの中にも、 キリストに導かれる人が多くいることであろう。 […] 誤りにおちいった人々は、かたくなで無謀とさえ思われるで あろう。しかし、彼らにも他の人々と同様の機会が与えられた ならば、その人々よりはるかに気高い品性と、世に役立つ大きな 才能を持つことができたかもしれない。天使たちは、これらの さ迷う人々をあわれrんでいる。天使は泣いているのに、人の目は 涙にぬれもせず、心は固く戸を閉ざしてあわれもうともしないので ある。 ああ、誘惑や過ちにおちいった人々への真心からの深い同情 が、なんと欠けていることであろう。もっともっと自己を捨てて、もっ とキリストの精神がほしいものである。 E.G.W. (キリストの実物教訓15章)
賢く交わる 「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から 守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも 世のものではありません。」 (ヨハネ 17:15-16) 神の民が、過去に世と交わった時、彼らの罪に加わる ことになってしまった(民数記 25:1-3)。 一方、私たちが、彼らの道に染まらないために、他の 人々から隠れるとすると何の益となりましょうか? 私達は世と塩のように混ざるようにと召されています。どうした ら、私たちの味を失わずにそれをなすことが出来るでしょうか? 私たちは、未信者との関係を築くにあたり、超えてはならない 境界のあることを知らなければならない。 聖霊は、私達の原則を捨てず に、他の人々と関わるために、 共通の利益を見出せるように 助けて下さる。
よこしまな時代の中で 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに 行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、 よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、」 (フィリピ 2:13-15) 私達は腐敗した世に生きている。私たちは自分達にとって心地よい霊的 領域にとどまって、霊的に内向きの者となるように誘惑されるかもしれない。 しかしながら、私たちは、光となって 人々を神に導くようにと召されて いるのである。 私たちは、自らを 閉じ込めてしまっては、決して光と なることはありません。 私たちは、私たちの内に働く、神の 力に信頼して、神のメッセージを、 このよこしまな世代と分かち 合わなければなりません。
よこしまな時代の中で これらのどの教会が、私たちの使命を よりよい方法で成し遂げているでしょうか? 地域社会の中にある教会。 「 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神 であるからです。 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、 とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の うちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、」 (フィリピ 2:13~15) これらのどの教会が、私たちの使命を よりよい方法で成し遂げているでしょうか? 地域社会の中にある教会。 教会員にのみ仕え、地域社会とは、 交わらない。 地域社会に向いた教会。 地域社会が望んでいると彼らが考える事を提供する。地域社会の必要について 間違っているかもしれない。 地域社会と共にある教会。 地域社会の必要を分析し、彼らとともに どのようにしてその必要にこたえるべきかを話し合う。
「アンテオケの信者たちは、神が自分たちの生活の中に働き、「その願いを 起こさせ、かつ実現に至らせる」ことを認めた(フィリピ2:13) 彼らは、永遠 の価値には全くむとんちゃくに見える人々の中に生活していたが、心の正直 な人々の関心を引いて、自分たちの愛し仕えている主について、積極的な あかしをたてようと努力した。彼らは、そのささやかな働きをとおして、 いのちのことばを効果的なものとする、 聖霊の力によりたのむことを学ん だ。こうして彼らは、生活のさまざまな歩みをとおして、日ごとにキリストに 対する信仰をあかししていたった。」 アンテオケにいたキリストの信徒たちの模範は、今日世界の 大都市に 住むすべての信徒に、霊感を与えるものでなければならない。 […] そのような働き人が、イエスのもとに魂を導く努力をする時、彼らは、他の どのような方法でも接することのできない多くの人々が、賢明な個人的働き かけにいつでも応じる用意が出来ていることを発見するのである。」 E.G.W. (患難から栄光へ16章)