中日比較文学研究 古代ヤポネシアで何が起こったか
ヤポネシア ヤポネシア=島尾敏雄の考案した造語で、日本列島を指す概念
課題論文 岡田英弘(2008)「邪馬台国は中国の一部だった」『日本史の誕生』筑摩書房 網野善彦(2000)「アジア大陸東辺の懸け橋―日本列島の実像」『「日本」とは何か〈日本の歴史00〉』講談社
課題論文①
著者紹介 課題論文① 岡田英弘(2008)「邪馬台国は中国の一部だった」『日本史の誕生』筑摩書房 岡田英弘(おかだ ひでひろ)〔1931― 〕 東京外国語大学教授(名誉教授)。歴史学(満州史・モンゴル史・中国史・日本史) 【主要著書】 『倭国 東アジア世界の中で』 (中公新書 1977年) 『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』 (筑摩書房[ちくまライブラリー] 1992年/ちくま文庫 1999年) 『日本史の誕生 1300年前の外圧が日本を作った』 (弓立社 1994年/ちくま文庫 2008年) 『歴史とはなにか』(文春新書 2001年) 『モンゴル帝国の興亡』(ちくま新書 2001年) 『中国文明の歴史』(講談社現代新書 2004年) 『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店 2010年)
「邪馬台国は中国の一部だった」論構成
■「魏志倭人伝」の読み方 ○邪馬台国ブーム 1945年を境に、日本の国史から『日本書紀』『古事記』の建国神話が追放 →中国の正史、なかでも「魏志倭人伝」に注目が集まる
中国の正史≠歴史の忠実な記録 【「魏志倭人伝」の取り扱いをめぐる問題点】 「歴史学の素人と専門家を問わず、「魏志倭人伝」は基本的に、三世紀の日本列島の現実の忠実な記録であると頭からきめてかかり、ただ実際の日本列島の地理に合わない、倭人の諸国の方位と里程記事をどういじくりまわしたら、邪馬台国の位置を自分に都合のいい所へ持ってこられるかというゲームばかりに熱中することになる」ということ 中国の正史≠歴史の忠実な記録
○三世紀の中国にとっての日本 「「魏志倭人伝」は、魏朝中国の皇帝と、倭人の諸国との間の政治関係の記録なのであって、倭国の方位や里程・風俗など、われわれの興味をそそる記事はそのつけたりにすぎず、陳寿としては個人的に当時の日本に特に関心を持つべき理由は全くなかった」(p.26)
■特異な中国人の歴史観 ○歴史の意味が違う ヨーロッパ・日本と中国との歴史という言葉の意味の違い ヨーロッパにおける「歴史」:ギリシア悲劇が典型。人間の傲慢が神々の怒りを引き起こして破滅が到来する過程を物語ること。人間の意思の壮大さと実力とのギャップから生まれる悲壮美が主題となる。 中国における「歴史」:皇帝がいかに「天命を受ける」という資格を確保していることを証明したか、またはそれに失敗したかを書き留めること
【紀伝体】 本紀:それぞれの皇帝が、個人としてではなく、政治の機関としてどうファンクション(機能)したかを記したもの 列伝:皇帝と同時代の人々が、皇帝との関係においてどんな位置にあり、何をしたかを伝えるためのもの 「正史の列伝は、それが中国人のある特定の人をあつかうものでも、その人が生前にどんな生活を送り、どんな思想を持ち、いかなることに喜怒哀楽の情をおぼえたかは、それが何らかの形で皇帝とかかわってこないかぎり、全くふれようとしないのが原則である。/だから外民族の列伝でも、その人々がどんな社会を作り、どんな生活様式を持ち、どんな言語を話したかを伝えるのが目的ではない。大事なのは、その民族が中国の皇帝とどんな関係を維持したか、ということだけである。」(p.28)
■中国史書のでたらめぶり ○真実の意味も違う 日本における「歴史」:何時、どこで、どんなことが起こったかを、理屈抜きで記録するもの。 事件のディテールに異常に強い関心がある。 「中国人にとって、何かを書くという行為は、あるべき事を書くことを意味するのである。歴史の記録のばあいには、事が期待するとおりに起こらなければ、これを無視するか、または記録者の理想を書きつけて、世界をさらに完全にするしかない。」(p.31)
○『明史』に出る信長と秀吉 「明史日本伝」のでたらめぶり 「日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の下男だという。すばしっこくて口がうまいので、信長に気にいられて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。……信長の参謀の阿奇支というのが落度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて部将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて帰り、明智をほろぼした。……」(p.33)
※「「明史日本伝」が伝える日本の政治情報がこれほどまちがっているのに、それよりも千五百年近く前にできて、日本がまだ中国史にあまり大きな影響をもたなかった時代の「魏志倭人伝」が、三世紀の日本の実情を忠実に伝えているなどと考える人は、合理的精神の持ち合わせがないのである」(p.33-34)
■二つの報告書からできた「倭人伝」 ○倭国へきた魏の官吏二人 「魏志倭人伝」 =240年の梯儁の倭国派遣の報告書+247年の張政の報告書←陳寿がこれらの原資料をつなぎあわせて作成 ○二つの派閥系統 梯儁=帯方太守・弓遵の派閥 張政=帯方太守・王頎の派閥 →派閥系統が異なるために、張政は梯儁の報告書を参照できず、倭国の事情について全く異なる描写をすることになった。 →陳寿が二つの報告書を気楽にまぜあわせて「倭人伝」を書いた
■「倭人伝」の本当の価値 ○四百年以上、中国の支配下に 「われわれ日本人は、紀元前二世紀の終わりに中国の支配下に入り、それから四百年以上もの間、シナ語を公用語とし、中国の皇帝の保護下に平和に暮らしていた。それが、紀元四世紀のはじめ、中国で大変動があって皇帝の権力が失われたために、やむをえず政治的に独り歩きをはじめて統一国家を作り、それから独自(?)の日本文化が生まれてきたのである。/「魏志倭人伝」の本当の価値は、この大変動の前夜における、倭人の政治的地位が、中国世界のなかでどのようなものだったかを示してくれているところにあるのである。」(p.38)
○中国の商業ルート 夏・殷・周などの古代王朝=都市国家(定期市を原型とし、その商人団の頭が「王」) →王都からは四方に貿易ルートが伸びていて、それを通って商品が流れる。 →蕃地に植民しては新しいポリスを作って発展していく。 →商人(入植した開拓者)は、入植地に宿舎を建て、一年を通じて滞在する商社の駐在員が現れる。 →その生活を支える食糧が必要になり、需要に応じて現地の生産性があがってくる。 →蕃地に都市が発生。 →原住民の間に格差が発生(部落を代表して中国商人と交渉する役目の酋長の権力が、部落の経済が貿易に依存する度が強くなるにしたがって増大し、酋長は奥地の部落を経済力で支配して一つの小王国を作り上げる)
■帝国は皇帝の私的企業 ○朝鮮から日本へ 山東半島の中国商人→北朝鮮へ →韓半島の開発が進む →平壌→漢江流域→洛東江流域→釜山→対馬・壱岐→唐津(「魏志倭人伝」の末盧国)というルートで中国・日本の商品が取引される(その輸送に従事したのは、中国人でも倭人でもなく、南韓の原住民)
○中国皇帝制度の完成 皇帝=商人・金貸し 政府の収入=租=農産物の現物徴収。地方官庁(県)の役人や軍隊の維持費にあてられる 皇帝の収入(ポケットマネー)=税=国境や交通の要衝、都市の城門を通過する時に商人が払う。戦争と外交に使われる 帝国=皇帝の私的企業
○事業家皇帝 「漢の武帝は典型的な事業家皇帝であって、これまで帝国の国境外の王国が営んできた商品取引きを自分の手中に収めようとして遠征軍を送り、郡県制度を施いていった。」(p.46)→帝国の膨張
■郡県制度の本質 ○皇帝の直轄都市 「南越征服のわずか四年後、前一〇八年には漢軍は朝鮮王国を征服し、平壌を中心とする大同江流域は楽浪郡として皇帝の直轄地になったが、ここでも朝鮮王国の旧領土が郡県になっただけでなく、中国の郡県制度は、日本をめざして地の果てまで伸びていった。」(p.47) 日本:東アジアで最も大きな人口を抱えている地域であった
【郡県制度の本質】 「県」=皇帝の直轄都市。自然発生的な集落ではなく、帝都から送り込まれた軍隊が貿易ルート上の要地で商品の集散地、つまり定期市の立つ所を占領して地ならしをし、東西、南北に井桁状に整然たる道路を作り、ブロックごとに木戸をつけ、全体を堅固な城壁で囲む。城内は全体が常設市場なので、中へ入って取引きをしようという原住民は、まずこの市場の組合員にならなければならない。/これが「民」というもので、名前を市場の事務所、つまり県庁に登録するとこの資格がもらえるが、「民」たるものは、組合員たる皇帝に対して一定の義務を負う。組合費として「租」を納めること、市場の設備の維持や修理のために労働力を提供すること、および非組合員の原住民、すなわち「夷」に対して組合員の特権を守るため、自警団に出ること、つまり兵役に服することなどが、そうした義務である。
※県城の周辺に住んでいたのは、すでに「民」になった原住民。かれらは市場に入って、遠方からきた商人たちと取引きするのに、自分たちの土語は通じないから、しぜん帝都の言語を簡単化して、土語の単語とまぜ、一種のピジン中国語を作りだした。これが、今のシナ語の方言の起源である。
「郡」=軍管区の意味。郡の「太守」はその司令官であり、行政官ではない。県と県の間の土地には、まだ皇帝組合に加入しない「夷」がいくらでもいるから、それから「民」を保護するのは、郡の太守の重要な任務である。
○倭人、百余国 ○倭人、百余国 紀元前82年…真番郡(現在の釜山附近の郡。倭人との交渉に当たる役目)廃止 →倭人の部落、百余国との交渉は、楽浪郡(現在の平壌付近の郡)が引き継ぐ →倭の地から遠いため、資本力のない小部落は長途の航海ができない →大部落が貿易を独占(その一つが、奴国。後漢皇帝に朝貢、「漢委奴国王」の金印を拝受)
■いまも変わらぬ中国外交 ○朝貢は対内的な宣伝 古代中国の「朝貢」=外国からの訪問によって、対内的に自らの地位の正当性を宣伝。 朝貢使節の派遣を決定するのは、当の外国ではなく、その国との貿易窓口になっている郡。 使節団が帝国の境内にはいってからの旅行経費は、全部中国側の負担。 いよいよ洛陽に入場するときは、中国兵が前後を護衛して、「倭人朝貢」の旗をひるがえし、楽隊もにぎやかに都大路を練り歩いて、黒山の見物の人民に、皇帝の徳がいかに遠方までおよんだかを印象づける。 これが中国の伝統的な外交の意味で、すべて国内に対する宣伝が目的であり、当の外国でそれがどう受け取られようが、全くかまわない。
■日本の建国者は華僑 ○卑弥呼の登場 後漢末189年、南満州で公孫度という軍閥が独立王国を作る→楽浪郡を支配下に入れる 二代目の公孫康は、漢江の流域に帯方郡を新設(倭人関係を担当)。漢朝派を排除し、邪馬台国(代表者:卑弥呼)を倭国代表の友好商社に選ぶ 238年、公孫軍閥、魏によって滅ぼされる→魏の皇帝と邪馬台国とが直接的な関係に置かれる 239年、邪馬台国の使節団が帝都洛陽に入場、皇帝支持のパレードを行う (皇帝の栄光をたたえるためにこの出来事を記録し、「魏志倭人伝」が成る) 魏が滅亡した後、邪馬台国は、晋との間に関係を築く→使節団を派遣 300年頃、職業軍人の間でクーデター闘争→内戦。 311年、遊牧民族系の傭兵を原型とする職業軍人の部隊の一つ、匈奴軍が洛陽を占領。外人軍閥の対立抗争が百年続く(五胡十六国の乱) 楽浪郡・帯方郡の消滅→原住民諸国の中国への傾斜が不可能になる→自立へ
○日本人は華僑の子孫 311年の政変後、韓半島・日本で独立王権の成立 新興諸国の政府官僚=華僑 百済:近仇首王 新羅:奈勿王 日本:仁徳天皇 「結論を一言で言えば、日本の建国者は華僑であり、日本人は文化的には華僑の子孫である。これはアジアのどの国でもそうで、別に驚くには当たらない。そして「魏志倭人伝」は、まさにその前夜の情勢を伝えてくれる、えがたい史料なのである。」(p.56)
課題論文②
課題論文② 網野善彦(2000)「アジア大陸東辺の懸け橋―日本列島の実像」『「日本」とは何か〈日本の歴史00〉』講談社 著者紹介 網野善彦(あみの・よしひこ) 1928年― 2004年 中世日本史専攻。
【主要著書】 『蒙古襲来(上・下)』(小学館『日本の歴史 第10巻』所収、1974年/小学館ライブラリー、1992年) 『蒙古襲来(上・下)』(小学館『日本の歴史 第10巻』所収、1974年/小学館ライブラリー、1992年) 『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社、1978年/増補版、1987年/平凡社ライブラリー版、1996年) 『東と西の語る日本の歴史』(そしえて、1982年/講談社[講談社学術文庫]、1998年) 『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店、1984年) 『中世再考――列島の地域と社会』(日本エディタースクール出版部、1986年/講談社[講談社学術文庫]、2000年) 『異形の王権』(平凡社、1986年/平凡社ライブラリー版、1993年) 『海と列島の中世』(日本エディタースクール出版部、1992年/講談社[講談社学術文庫]、2003年) 『中世の非人と遊女』(明石書店、1994年/講談社[講談社学術文庫]、2005年) 『悪党と海賊――日本中世の社会と政治』(法政大学出版局、1995年) 『日本中世の百姓と職能民』(平凡社、1998年/平凡社ライブラリー版、2003年) 『「日本」とは何か』(講談社、2000年/講談社学術文庫, 2008年)
「アジア大陸東辺の懸け橋―日本列島の実像」論構成
1.アジア東辺の内海 ○南北に連なる五つの内海
1.アジア東辺の内海 ○南北に連なる五つの内海 ベーリング海/オホーツク海/日本海/東シナ海/南シナ海 →日本列島の社会を理解するためにはこれらの海と、海そのものの特質を視野に入れなければならない。
○海の世界の特質 「海に囲まれた前近代の日本国が外敵からの攻撃、異民族の進攻を受けることのきわめて少なかったのは事実である。しかしそれは日本国、日本列島が海によって他の地域から孤立していたことを意味するものでは決してない。/急がず慌てず、日和を十分に見定めて航行すれば、平穏な海ほど安定した快適な交通路はないといってよい。それゆえ、長い時間をかければ多くの人も膨大な物も、海を通じて運ぶことができるのである。荒れた海は、たしかに人と人とを隔てる障壁になるが、こうした穏やかな海は、人と人とを緊密に結びつける、太く安定した交通路であった。」(p.34)
日本列島=アジア大陸の北方と南方を結ぶ巨大な懸け橋の一部
○「孤立した島国日本」の虚像 《日本=孤立した島国》←虚像 ※この虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに明治以降の近代国家であり、さきの島々を領土として国民国家をつくり出すという課題を自らの課題とした政府主流の選んだ一つの選択肢であった。 ■島と島の海峡=人と人を隔てるとともに、人と人を結びつける役割をもっている
2.列島と西方地域の交流 ○列島をこえる縄文文化
【渡辺誠の研究】 →「黒曜石を用いた銛(もり)、曾畑式土器などの共通した文化を持つ海民が、縄文時代前期から朝鮮半島東南岸、対馬、壱岐、北九州にかけての海で活動していた。少し時代が降ると、その動きは東シナ海に及び、沖縄や山陰・瀬戸内海にもその動きが見られる」 =縄文文化は決して日本列島だけで完結などしていなかった!!
○朝鮮半島と列島西部 「紀元前三、四世紀ごろから、新たにそれまでとは異質な形質を持つ人々、ふつう弥生文化といわれる、縄文文化とは異なる文化を担う、きわめて多くの人々が、主として朝鮮半島から列島西部、北九州・瀬戸内海付近・近畿等に移住してくる。船を駆使することが巧みで、稲作・畠作、養蚕をはじめ、金属器の使用、牛馬の飼養、鵜飼・鷹飼等の多様な文化要素が、このとき列島に流入し、西部からしだいに列島東部に及んでいった。/塙原和郎氏は人類学の立場から、この状況について、東南アジア系の縄文人が長期間にわたり広く生活を営んでいた日本列島西部に、北東アジア系のツングースの流れとみられる多くの人々が主として朝鮮半島から移住してきたとする。それはこれまで考えられてきたような新たな技術を持った一握りの人々の渡来などではなく、女性まで含む、いわば〝面〟としての人間集団の移住で、七世紀までの約千年間に、最大百二十万人以上、少くみても数十万の人々が列島に入ってきた、と塙原氏は指摘する。/それは列島に住む人々の形質にも明確に影響を及ぼし、とくにさきの地域を中心とする列島西部人はこうした弥生人の形質を強く持っているが、フォッサ・マグナ以東の本州東部人はその影響を多少はうけつつも縄文人の形質をより強く残し、とくに東北北部から北海道、南九州から沖縄には、弥生人の形質は及ばず、現代アイヌ人、沖縄人は縄文人の形質を最もよく伝えているといわれている(…)。」(p.41-42)
縄文人と弥生人
○被差別部落の東西の地域差 ↑ 「穢」(人の死、新生児の誕生、火事による焼亡、家畜の死など)に対する社会の対処の仕方の差異に起因する 沖縄(琉球)・北海道(アイヌ)…被差別部落は存在しない 東北・関東・中部…被差別部落の数は少ない 西日本…地域差はあるが、被差別部落の数、問題の深刻さは東北・関東とは比較にならない ↑ 「穢」(人の死、新生児の誕生、火事による焼亡、家畜の死など)に対する社会の対処の仕方の差異に起因する 【木下忠の研究】 縄文文化=穢にさほど神経質ではない 弥生文化=穢を強く忌避する傾向がある
○海部・海夫の道 【木下忠の研究】 胎盤を浜の砂に埋め、海に流すという海民の間に行われる習俗 →肥前・安芸などの家船(えぶね)集落、芸予諸島、出雲、熊野、志摩、伊豆、能登、越後、津軽などの古い海村に分布 =済州島から列島の太平洋岸、日本海岸にいたる海民の道
○太平洋・日本海を移動する海民 「済州島の「船を以て家と為す」といわれた鮑をとる海民の末裔の海女たちは、明治以降、三宅島、伊豆半島、房総半島など列島の各地に来往し、伊豆の伊東、とくに房総南部の勝浦、天津、和田浦、千倉、金谷、竹岡、保田などには、現在も「チャムス」といわれる済州島から移住した海女たちが、その生活を営んでいる。」(p.50) 「一方、北西九州にも宇久島の平の海士をはじめ、広範囲に男女の潜水漁に携わる人々が現在も活動しており、平の海士は明治中期ごろから済州島・朝鮮半島に出漁している。」(p.51)
「瀬戸内海にも安芸の能地・二窓、備後の吉和などで、「家船」が最近まで活動していたが、伊予の河野氏の家譜『豫章記』にはその源流とみられる「海士ノ釣船」や「今治ノ海人」などが姿をみせるだけでなく、河野氏によるこれらの海民に対する支配の由緒が、朝鮮半島との戦争を含む交渉の説話の中で語られている。瀬戸内海の世界も朝鮮半島ときわめて近かったのである。」(p.51-52) 「内陸部と異なる海村の習俗は、このような海民の動きの中で、太平洋岸、日本海岸にその分布を拡げていったのであろうが、この海部・海夫の道はそれ自体、きわめて古くまで遡る海上の交通路であり、もとより人だけでなく、後述するように、多様かつ膨大な文物がこの道を通り、列島外の大陸・半島から列島の太平洋岸、日本海岸を東進、北上していったのである。」(p.52)
3.列島の北方・南方との交流 ○内海を横断する人々 ■北方との関係 「オホーツク海を通じて、縄文時代早期以前からアムール川(黒龍江)地域と関わりのある文化の北海道への流入が見られるといわれ、縄文晩期には大陸との関係を物語る異物が出現するのは、西方からの文化の流入と同様、大陸の社会の激動の波及と見られている。…八世紀から十三世紀にかけて、海を舞台として展開したとみられるオホーツク文化の波が、何回かにわたって道東に流入し、続縄文文化の流れをくむ擦文文化と併存する。」(p.53)
「六世紀から七世紀にかけて、高句麗との交流を伝える文献上の記事が少なからず見られるが、その来着地とされる加賀や能登の古墳には、高句麗からの技術の流入の影響をうかがうことができる、と指摘されている。」 「八世紀から十世紀にかけて、渤海の使が日本海をこえて、北は出羽、西は出雲までの広い範囲にわたる本州の日本海沿岸各地に来着し、活発な交易が行われ、日本側からもその帰国を送る使者が、たびたび日本海を渡って大陸に行ったことも、周知の通りである。」(p.54)
○列島を横断するルート 北方←《交易》→日本海沿岸←《交易》→列島内陸部・太平洋沿岸
○交易民としてのアイヌ ■アジア大陸北東部と本州島以南の列島との交流は従来ほとんど注目されてこなかった 《原因》進歩史観による偏見 =アイヌを遅れた未開の人々と考えることによって、アイヌの活発な交易活動を見過ごしていた
アイヌ
○北から大陸に渡った僧 1295年、駿河の僧、日持が法華宗布教のため、北方ルートで大陸へ →北京の北西、宣化市の立花寺の塔下の穴からその事跡を記した史料が発見される→1936年、岩田秀則が蒐集 日持の詩、鄭日昌という老人が梁文字で記した文献、西夏文字の華厳経などが遺されている
○南方世界との交流 「琉球王国の独自な国制の実態、とくに十四~十五世紀以降、琉球の船がマラッカからジャワ、スマトラまで南下し、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の間で活発な交易活動を展開していた事実があきらかにされる一方、考古学の発掘成果を通じて、十二、三世紀から中国大陸の青磁・白磁の流入の事実も指摘され、アジア大陸東南部における南西諸島の懸け橋としての役割が解明されようとしている。」(p.64)
4.東方の太平洋へ ○太平洋を渡った人々 伊予の八幡浜の漁民は、打瀬船(うたせぶね)を操り、三陸沖まで北上し、そこから太平洋を渡って毎年、バンクーバーまで行っていた 紀州の串本、潮岬、大島などの漁民が戦前まで毎年、オーストラリア沿岸に貝類採取の出稼ぎ漁業を行っていた
○ペルーのリマに住む日本人 17世紀、ペルーのリマに日本人(日系人)が20名、居住していた 16世紀のメキシコの公証人文書からもここに日本人が住んでいたことが確認される 17世紀、東南アジア各地に日本町が形成 1610年、京都の商人、田中勝介がメキシコに渡航、翌年帰国 1613年、伊達政宗によって派遣された支倉常長は、メキシコ経由でスペインへ渡航
5.列島社会の地域的差異 ○列島の東部と西部 「こうした海の道を通じての、さまざまな方向の諸地域との密接な交流を通じて、アジア大陸の南と北を結んで、東北から西南に長くのびる列島には、おのずとそれぞれに個性のある地域社会が形成されていった。日本列島の社会はその当初から、けっして一様、単一などではなかったのである。」(p.74-75)
○東と西の違い 【青葉高の研究】カブの品種と地理的分布 その分布が大野晋の「東部方言」/「西部方言」の地域と一致 洋種系品種=列島東部に分布、東北アジアから流入 和主計品種=列島西部に分布、中国から朝鮮半島を経て流入 その分布が大野晋の「東部方言」/「西部方言」の地域と一致
【都出比呂志の研究】古代住居の形態 列島東部=大型の長方形系統の住居、主柱配列:対称構造、炉の位置は住居の中央より周壁ぎわに偏る 列島西部=大型円形や多角形の住居、主柱配列:求心構造、炉の位置は住居の中心
【江守五夫の研究】婚姻形態 列島東部 列島西部 =嫁入婚(家長の意思で婚姻が決定→妻が夫の家へ入る) 中国大陸北部、シベリア東北部の諸民族の習俗と密接に関係する 列島西部 =婿入婚(初期:別居・訪問→その後:同居) 中国大陸南部、長江以南からインドシナ方面にかけての南方系の習俗と関係する
○北と南、太平洋と日本海 【藤本強の研究】『もう二つの日本文化』(東京大学出版会、1988年) 「従来の〝常識〟のように「日本文化」を一つときめこむことの誤りを指摘し、本州・四国・九州の「中の日本文化」に対し、北海道の「北の文化」、南島の「南の文化」を「もう二つの日本文化」ととらえることを主張し、そのそれぞれの実態を浮彫りにしている。」(p.79) ○網野→「藤本氏の主張に、私は満腔の賛意を表するが、ただ私は「中の文化」もまた一つではなく、東部と西部に分かれると考える」
来週の課題
来週の課題 以下の小説・論文を読んできてください。①の作品に関する自分の意見を、一人5分程度でまとめてきてください。どのようなポイントに着目してもかまいません。 ①王昶雄「奔流」『日本統治期台湾文学 台湾人作家作品集第五巻』(1997) ②廖秀娟(2012)「王昶雄「奔流」」『〈夢〉からみる昭和十年代の外地文学』致良出版社