本日のメニュー(5/31) 前回の続き 「(人間の)認知」、「心 (mind)」をどのように考えるか、研究するか ⇒研究の方法論、アプローチ 様々なアプローチを概観する(サワリだけ) 「考える」ことを考えるということ 哲学の役割: それらアプローチの背景にある概念・前提・拠り所を検討し、原理的な実現可能性などについて論じる。 また歴史的な事項にも触れる。 1
本日のキーワード 心身問題 心身二元論 合理主義 還元論・還元主義 全体論・(全体主義) 認識論・存在論 実在論 論理実証主義 素朴実在論 科学的実在論 論理実証主義 「心の哲学」、思考哲学 機械論 行動主義 認知主義 ゲシュタルト クオリア 機能主義 (表象主義) (記号主義) 局在性・大域(遍在)性
哲学 (Philosophy) 伝統哲学の部門(認知科学の関係するもの) 「心の哲学」 (Philosophy of mind) 認識論 (Epistemology) 存在論 (Ontology) 形而上学 (Metaphysics) 現象学 (Phenomenology) (現代) 解釈学 (Hermeneutics) (現代) 「心の哲学」 (Philosophy of mind) 論理実証主義 (Logical positivism) 機能主義 (Functionalism)
哲学 (続) 元来、「哲学=学問」であった(古代ギリシャ~中世) 哲学 (続) 元来、「哲学=学問」であった(古代ギリシャ~中世) アリストテレス: 「万学の祖」 自然科学(自然哲学)、論理学、倫理学、文学、政治学など、あらゆる学問の開祖 中世、スコラ哲学を経て、近代科学と対立する位置づけとなった。 自然科学との違い: 理性志向ではあるが、実証的視点をとらず、思弁的考察が中心。 クイズ:次の□に入る人名は?矢印の意味は? → プラトン → アリストテレス →
哲学 (続) 最後の名残: ニュートン: プリンキピア 『自然哲学の数学的諸原理』 (1687) (Philosophiae naturalis principia mathematica) 近代以降、自然科学が哲学から独立してゆく 哲学は人間の認識の問題に向いていく 大陸合理主義(デカルト、スピノザ) イギリス経験主義(ロック、ヒューム) ライプニッツと単子論 ドイツ観念論(カント、ヘーゲル)
心身問題 (Mind-body problem) 身体(=物質)としての人間は厳然として存在する 一方、心(・精神・意識・自我)も(少なくとも自分については実感として)厳然として存在する すると、両者の間にどのような関係があるか、それをどのように理解し、探究したらいいかが問題となる。 プラトンの「イデア論」などに起源が求められる。 「心の哲学」の中心課題でもある。 “Hard (⇔Easy) problem of consciousness”
心身二元論 (Mind-body dichotomy) 心(精神)と身体(物質)とは、互いに独立な別個の存在。 すると、両者はどのように関係するのか、そもそも別世界の存在が交流しうるのかが問題となる。 素朴には: 魂、霊魂、「ゴースト」(<攻殻機動隊) (“ghost in the machine” G.Ryle, A.Koestler) ⇔一元論 (monism) いずれか一方をより根源的(他方は副次的・派生的)とする考え方。 物質中心の立場: 唯物論(物理主義、...) 精神中心の立場: 唯心論(イデア論なども)
デカルトと心身二元論(1) (René Descartes : 1596-1650) “Cartesian”: 形容詞形「デカルト的」 「我思う、ゆえに我あり」 =「コギト命題」 Je pense, donc je suis (仏) cogito, ergo sum (羅) ego cogito, ego sum, sive existo (羅) 「方法序説」 (1637) 原題:「理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説」 本文+付録(「気象学」、「光学」、「幾何学」)
デカルトと心身二元論(2) 方法的懐疑(心身二元論の出発点) 感覚・論証・知識・精神など、あらゆるものに誤謬が存在しうるという懐疑を推し進めた末に、それを疑う「私」はどうしても確かな存在として残る。 「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
デカルトと心身二元論(3) (科学的方法論の基礎) 精神を導く4つの法則: (科学的方法論の基礎) 精神を導く4つの法則: (明証性) 私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと (分析) 検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割すること (総合) もっとも単純なものからもっとも複雑なものの認識へと至り、先後のない事物の間に秩序を仮定すること (検討・吟味) 最後に完全な列挙と、広汎な再検討をすること
デカルトと心身二元論(4) これは近代科学の方法論の基礎・範例となる。 実証重視 分析と総合: ベースは還元主義 分析と総合: ベースは還元主義 理性への信頼と重視 中世哲学・神学からの脱却 参考: デカルト主義者によるニュートン力学の批判。
デカルトと心身二元論(5) コギト命題自身がすでにその萌芽となっているが、のちの著作でデカルトは「実体二元論」(英語版wiki)を表明する。 精神と肉体とは脳内の松果体 で相互作用を行う(右図) ⇒ ??
参考:デカルトによる「神の存在証明」 第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
デカルトと心身二元論(6) デカルトの二元論は、純粋に理念・学説の表明というよりは、キリスト教会との葛藤・妥協・取引という面もあるのではないか? ブルーノの処刑(1600) ガリレオ裁判(1616・1633) 物質界と精神界を切り離すことによって、精神界(教会の領分)には手をつけず、物質界を探究するフリーハンドを担保した? 物質界について、デカルトは機械論的世界観を持っていた。
機械論 (Mechanism) あらゆる自然現象(特に人間)は物理的(特に古くは力学的)な現象として、決定論的に記述・説明できるという考え方。 デカルトに発した機械論は多くの信奉者を集め、ニュートン、ホッブスなどにも影響を与えた。 デカルトの100年後のド・ラ・メトリは人間対象の機械論を唱え、霊魂を否定した。 (時代の変化!)
機械論 (続) 具体的な機械になぞらえられる場合、その時点の 最新鋭・最精密機械が引き合いに出されることは、人間の認識の様態を示すものとして興味深い。 カラクリ人形、時計 現在は:ディジタルコンピュータ 将来は:量子コンピュータ? 生体コンピュータ? 機械としての人体: 細胞 60兆個 (うち脳は神経細胞 300億個、グリア細胞はその10倍弱) 現在のコンピュータは規模では 遜色なくなってきている?
還元論と全体論(1) 還元論(還元主義: reductionism)とは、素朴には「全体は部分(部品・要素)に分割され、それぞれの部分を理解することで全体が理解できる」という考え方を言う。 さらに少数の原理(例えば基本物理法則)によって、全体が理解できるといった考え方もこれに属する。 機械論的な考え方との親和性がよい。 自然科学の多くは、(表だって意識されていなくても)還元主義的な考え方に基づいていると言える。
還元論と全体論(2) 全体論(Holism)とは、「全体は部分より大きい」(アリストテレス)、つまり全体は部分の単なる寄せ集めとしては理解できず、そこで「創発(emerge)」してくる属性により成り立つという考え方を指す。 注1: 「全体主義(Totaliarianism)」は異なる意味になるので注意。 注2: 英語の whole と関係はあるが、“w” はないことに注意。 東洋思想は(以下とは理由は異なるが)全体論的志向に基づいていると言える。
還元論と全体論(3) システムを対象とする場合(複雑系なども含む)、特に要素間の相互作用が大きく複雑な場合には全体論的視点がとられるのが普通である。 ゲシュタルト心理学は、心理学における全体論的アプローチ 脳科学においては、脳機能の局在・遍在が還元論/全体論の違いに通じる。 知識表現の局所表現・分散表現もその対比の現れと言える。 還元論・全体論は必ずしも対立する概念ではなく、むしろ相補的な関係にあると言ってもよい。
論理実証主義 (Logical Positivism) (資料 ID [基礎 2] 2-4(a) pp.43‐46 参照) 「論理経験主義(Logical Empiricism)」とも言う。 E.Mach, B.Russell, L.Wittgenstein らの影響のもと、1920-30 年代にウィーン学派(M.Schlick, O.Neurath, R.Carnap)、ベルリン学派 (H.Rheihenbach)などにより提唱される。 19世紀までの自然科学の成功を踏まえ、実証的手法を重視する一方、形而上学(特に存在論)については「無意味」として取り上げない。
論理実証主義(2) 基本的には実験・言語の厳密化を目指し、 また「合理的再構築」の推進を目指す。 経験科学との親和性がよく、20世紀の科学哲学の中心となる。 ⇒「科学についてのメタ理論」 同時期に平行して、コンピュータの理論的基礎となってゆく数学基礎論(チューリングマシンなど)の研究も大発展する。 主要メンバーはナチスの台頭とともに北米に亡命し、北米での「分析哲学」の普及・発展の基礎となった。
logical positivism (Skeptic’s Dictionary) Logical positivism, also known as logical empiricism, is a philosophical attitude which holds, among other things, that metaphysics, more or less, is bunk. According to the positivists' "verifiability principle," a statement is meaningful if and only if it can be proved true or false, at least in principle, by means of experience. Metaphysical statements cannot be proved by means of experience. Therefore, metaphysical statements are meaningless. Critics of logical positivism have pointed out that since the verifiability principle itself cannot be proved true or false by means of experience, it is therefore meaningless.
機能主義 (Functionalism) (資料 ID [基礎 0] pp.ix-xiii も参照) 心・精神が身体と対峙するような「もの」として存在するのではなく、動的なプロセスとその状態としてまず考える。 心的状態は、脳細胞の特定の状態などに対応づけられるのはなく、心の働き全体の中で、どのような機能・役割(function)を果たすかによって特徴づけられる。 したがって「物理レベル」などに比べて抽象的な概念である。
機能主義(2) 哲学としては H.Putnam によって 1960 年代に提唱されたが、背景として、A.Turing らによる計算・アルゴリズムの概念が影響を及ぼしている。 例えば「知能の操作的定義」としての「チューリングテスト(Turing test)」(後の回の授業で取り上げる)は機能主義的アプローチの例である。 心理学・言語学などでも機能主義的考え方が広まっている。 推進者として J. Fodor, Z.Pylyshyn, D.Dennett など。
機能主義(3) 「機能」を実現する「媒体」は問われないため、 「機械の知」、「心を持つ機械」(機械=コンピュータ)の可能性が容認される。 これらを含め、認知科学全体との親和性がよく、いわばその「標準メタ理論」といった性格を持つ。 もっとも、研究者の多くは(意識は必ずしもしていなくても)、もともとそういった考え方に依拠していた、それの追認といった面もある。 心身問題については、一種の一元論的な見解を示すものとなっている。 脳→ハードウェア、心→ソフトウェア
機能主義(4) 反面、操作的(operational)、悪く言えば表層的な概念のため、批判も多い。 機能主義批判はそのまま、「機械は知能(心)を持てない」といった否定論につながる。あるいはむしろ逆に、機械が知能・心を持ちえないという観点から機能主義が批判される、といったほうがいいかもしれない。 そういった批判とは別に、中間的・過渡的な主張で、原理的な認識ではないといった感はある。
現象学 (Phenomenology) ここでは、E. Husserl や弟子の M.Heidegger により展開された哲学体系を指す。両者の間ではかなり内容・性格が異なる面もある。特に Heidegger は存在論的な面を広げる役割を果たした。 現象学全体は大きな体系だが、認知との関係でいうと、認知する個体は世界から孤立して存在しているのではなく、世界の中に「投げ出されて」おり、不断に関わりを持ちながら存在している、という点が基本である。
現象学(2) したがって、認知過程も閉じたプロセスとしてではなく、常に世界から干渉され続ける(逆に世界に働きかける)過程としてとらえられる。 チリの生物学者 U.Maturana, F.Valera による構成的生物理論は現象学と共通性を持つ。 また「社会における認知」、「協調作業における認知」などの研究も、現象学的視点を内包していると言える。
まとめ:科学者の立場から言うと... 概念整理や用語創出は科学者にとっても有益。 反面、問題意識や課題、取り組み方はピンと来ない。 哲学は基本的に主知的・思弁的であり、思索や議論、特に比喩や喩えによって新しい知見が得られるという点自体、経験科学にはなじまない。 また科学的アプローチは一歩一歩結果を積み重ねていくものであり、高踏的・超越的に一挙に結論に達しようという考え方とは合わない。 現時点での無知はあえて受け入れ、将来的に大きな成果を得られるのを期待する考え方にしたがっている(一種の予定調和論)。それを待つ辛抱には慣れている。
これまで科学の発展が、人間の考え方・ものの見方を抜本的に変革してきたケースは多い。逆に、現時点で将来的な展開・発展を予測するのは原理的に不可能である。 例えば「コンピュータで知能を実現しようというのは、月に行くため木に登るようなもの」といった批判は良く見られる。しかしそれとて実証的な根拠があってのことではない。 (比喩として面白いというのと、批判として当を得ているかとは必ずしも一致しない。) 一方、脳科学などでは、ナイーブさ、楽観主義が目立つ場合がある。 批判は大歓迎、ただし建設的なものを。 (哲学者との最大のメリットは「対話」にある。)