「留用された日本人」 私たちは中国建国を支えた NHKスペシャルセレクションより

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「留用された日本人」 私たちは中国建国を支えた NHKスペシャルセレクションより 2018.5. 25    戸 田 冬 樹

1.講師略歴 1943年(昭和18年) 中国・東北(旧満州)ハルピン市にて生誕 1943年(昭和18年) 中国・東北(旧満州)ハルピン市にて生誕 ・   祖父(群馬県出身)は神田ニコライ堂のニコライ学院を卒業渡満     大連市、ハルピン市で南満州鉄道(満鉄)嘱託など歴任。     白系ロシア人人脈との交流・各種調査等に従事。 ・    父(青森県出身)は満鉄に入社、終戦時ハルピン駅助役、留用さる。 1949年(昭和24年) ハルピン市日本人小学校 入学       注: 敗戦後、中国の主要な都市には日本人学校が設けられ          共通化した教材で初等教育を受けた。 1953年(昭和28年) 故国に引揚げ(10歳:小学校5年)      当時、日本と中華人民共和国間には国交がなかったが、両国の      赤十字社が仲立ちして、人道的見地から邦人集団引揚げが      実施された。 2

群馬県新里村の竹内の墓地 3

竹内謙三郎一族の墓 4

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2.演題の背景と経緯 1)演題の背景 日中国交正常化30年(2002年)NHK・ハイビジョン特集   「留用された日本人~日中・知られざる戦後史~」 より 2)経緯概要 1945年(昭和20年)8月の我が国敗戦後、共産党軍(人民解放軍)は満州各地に残留している邦人の内、社会インフラ(鉄道、医療、炭坑など)に携わっていた技術人材を組織ぐるみ「留用」して活用した。 その中には飛行隊も含まれていて、新中国の空軍創設に   協力した。 この間、中国国内では中華民国勢力と共産勢力による内戦が進行し、1949年10月1日に中華人民共和国が成立したが1953年頃まで帰国できない状況が続いた。 8

3)旧満州地域における歴史的推移 旧満州地域は清帝国(1616~1912:満州人が建てた王朝)の領域であったが、 不凍港を求める帝政ロシアが南下を図り、清帝国を圧迫して各地に権益を拡大した。この過程で、やがて日露戦争に至る。 1905年、日露戦争が薄氷の展開ながら日本の勝利となった以降、満州地域に日本人も参入し、やがて鉄道権益などを得るようになった。 1931年満州事変勃発、その後日本は満州全土を掌握して「満州国」を設立した。広大な満州地域を掌握するためには軍事力では不十分なため、各地に民間人や開拓団などが   入り、終戦当時には155万人レベルの日本人が在満した。 1945年8月9日、ソ連軍が参戦。 9

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3)旧満州地域における歴史的推移 1945年8月9日、ソ連軍が参戦。(兵員 150万人、大砲26000門、戦車5500台、航空機3400機) 1945年8月9日、ソ連軍が参戦。(兵員 150万人、大砲26000門、戦車5500台、航空機3400機) 敗戦時、満州には66万人の日本軍人がいたが、  その内57万人がシベリアへ強制移送された。 ・ 1946年4月、ソ連軍が撤退し、中国側に施政権が移ったが、日本と交戦中は国共合作として停戦していた国民党軍と共産軍の内戦が再開された。   (8月時点:国民党軍430万人、共産党軍128万人、    解放区の民兵200万人) 12

3)旧満州地域における歴史的推移 内戦中、国民党側は日本人の故国引揚げを概ね容認した。   一方で共産軍側(主として満州地域を含む北方方面に支配勢力を張っていた)は「日本人技術者の留用」を図った。 ちなみに敗戦の翌年から始まった中国からの邦人の集団引揚げは1948年8月に終了したが、この時点で旧満州に残された日本人は6万人以上と言われ、その中で「留用」対象となった者が1万人レベル(家族を合わせ2万人)存在した。 1949年10月1日、中華人民共和国建国。国民党勢力は台湾地域に撤退した。 1950年6月、北朝鮮軍が韓国を攻撃して「朝鮮戦争」勃発。その後韓国側には国連軍が、北朝鮮側には中国が支援した。しかし1951年には膠着状態となり、1953年7月に終結した。 朝鮮戦争の膠着・終結方向と平行して、在中国邦人の引揚げが再開された。 13

3.「留用」におけるエピソード 1)天蘭線の鉄道建設 2)医療関係者の従軍 3)空軍創設への協力 4)鉱山、工場などでの協力 14

1)天蘭線の鉄道建設 天蘭線:天水(西安の西380キロ)ー蘭州間 354Km 800名の邦人(技術者200名、他家族)が留用された ・ 1950年から1952年にかけて、天蘭線が建設された  天蘭線:天水(西安の西380キロ)ー蘭州間 354Km  800名の邦人(技術者200名、他家族)が留用された ・ 新国家建設および朝鮮戦争対応に、西方の原油輸送が 至上命令だった ・ 電気・水道もない3000M級の高原地帯で 日中双方の体勢で工事に当たった ・ これは1950年に中ソ相互援助条約が締結され、   東北地区で日本人技術者が不要になった結果でも    ある。 15

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2)医療関係者の従軍 留用された者の中で、もっとも多かったのは 医療関係者。(医師、看護士、傷病兵を運ぶ担架係など約3000人が留用された。  医療関係者。(医師、看護士、傷病兵を運ぶ担架係など約3000人が留用された。 人民解放軍の行軍に同行して傷病者に対応 鉄道建設、炭坑支援などにも医療関係者は留用された 旧満州には、軍医、満鉄病院、製鉄所病院  など 組織的な医療関係者が多数いた 17

3)空軍創設への協力 戦争末期、関東軍は精鋭を南方戦線に引き抜いた。一方で 在満州の成人男子35万人中25万人を招集 (根こそぎ動員)  在満州の成人男子35万人中25万人を招集 (根こそぎ動員) ・ 関東軍錬成飛行隊(パイロット養成と防空任務を担当)  林少佐の率いる約300名の隊(パイロット、整備士、燃料補給関わる)へ、人民解放軍から空軍創設への協力を依頼 人民解放軍総司令官・林彪、党東北局総書記・ほう真、参謀長・伍修権から直接の依頼   (同軍は陸軍のみで、海軍、空軍は無かった) ・ 1946年1月「東北民主連軍航空学校」が創設され、組織的にパイロットの育成、整備技術の教育が行われた。 ・ 1949年10月1日の建国記念式に天安門上空ほか各地でページェントを実施した。 18

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4.邦人の故国引揚げ ポツダム宣言には軍人・軍属の帰国のみが詠われ、一般邦人への言及がなかった。 1950年赤十字連盟理事会で、日赤代表・島津氏が中国代表・李徳全女史に接触し、一般邦人引揚げへの協力を依頼。しかし朝鮮戦争に中国が参戦し、交渉は暗礁に。 1952年7月赤十字国際会議で(世界的な)抑留者の釈放を決議。 同年12月、北京放送が突然「日本が船をだせば、中国政府は邦人帰国に協力する」と。 1953年2月日中両者の合意がなり、3月帰国第一船が舞鶴に入港。引揚げは1958年まで継続し、この間留用者も含め38000人が帰国した。 20

5.国交正常化、その後 1971年ニクソンが中国訪問、日本政府も対中政策 を転換した。 ・ 1972年田中内閣の基で国交回復が実施された。  を転換した。 ・ 1972年田中内閣の基で国交回復が実施された。 ・ 1977年「中国帰国者友好会」を旗揚げし、1979年   から帰国者の現地訪問が始まった。 ・ 中国側は多くの日本人が中国建国に協力したことへ感謝の意を表し、あわせて民間交流の場が持たれた。また経済協力の橋渡し、専門家の派遣、青年の研修受け入れ・人材育成などに寄与した。 21

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完 謝謝