通訳翻訳論 講義資料 獨協大学 外国語学部 言語文化学科 永田 小絵

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通訳翻訳論 講義資料 獨協大学 外国語学部 言語文化学科 永田 小絵 獨協大学 外国語学部 言語文化学科               永田 小絵 http://www.geocities.jp/nagatasae/2004tuuyaku.htm

翻訳について 講義の内容 翻訳の歴史(中国) 9月28日 翻訳者による体験的翻訳論(日本) 10月5日 翻訳のノルムの変遷 10月12日 翻訳の歴史(中国) 9月28日 翻訳者による体験的翻訳論(日本) 10月5日 翻訳のノルムの変遷 10月12日 現代の翻訳論と課題 10月19日 10月26日は休講

通訳について 講義の内容 通訳研究の歩み 11月9日 通訳の歴史 11月16日 実務としての通訳 11月23日 通訳研究の歩み 11月9日 通訳の歴史    11月16日 実務としての通訳  11月23日 11月30日は休講 言語学から見た通訳論 12月7日 通訳教育の実際     12月14日

中国における翻訳の歴史 中国の翻訳の流れ 二世紀から九世紀中葉の仏典翻訳活動 十六世紀におけるキリスト教布教活動としての翻訳 十九世紀から欧米の中国進出に伴う翻訳活動 現代の翻訳活動

二世紀から九世紀の仏典翻訳活動 仏典翻訳の主力は外来の翻訳者 四大訳家:玄奘、鳩摩羅什、真諦、不空(または義浄) 中国国人は玄奘のみ 漢代末期から唐武宗の廃佛までに中国で翻訳にあたった翻訳者は外国人僧侶が圧倒的多数を占め、本国の僧侶は後期になってから徐々に少数ながら現れてきている。八百年近くのあいだ、翻訳は外来の力に依存してきた。 国内知識階級は翻訳活動を本国文化の主流として位置づけることがなく、翻訳はずっと文化の周辺的な作業であると見なされ、知識人の従事する活動とはなりえなかった。当時の国内ではまだ儒教の勢力が圧倒的であったことも本国人翻訳家の出現をさまたげた大きな原因であろう。しかしながら、これを別の角度から見るならば、中国の仏教界で外国の翻訳僧が高い地位にあり、排斥されることがなかったことは、中国の翻訳市場が自由で開放された場所であったことを示している。 仏教伝来当初の翻訳方法は外国人僧侶の口頭による翻訳を中国人僧侶が書き留めたものであることが分かっている。

二世紀から九世紀の仏典翻訳活動 鳩摩羅什(クマーラジーバ)(350年-409年頃) 401年に長安に入り『法華経』『維摩経』『阿弥陀経』『大智度論』などの初期大乗経典を翻訳 真諦(499-569) 武帝に招かれ、多くの経典を翻訳した。 玄奘(三蔵法師 602‐664) 陸路インド(ヴァルダナ朝、ナーランダー寺院へ)へ行き仏典を持ち帰り翻訳(長安の大雁塔で)。「大唐西域記」    →『西遊記』三蔵法師のモデルとなった。 義浄(635~713) インドに二十年余滞在し、三十余カ国を歴訪し、仏典とインド学を研究した。695年に帰国し洛陽の福先寺・長安の西明寺などで仏典翻訳に従事した。

明末の外来宣教師による翻訳 イエズス会による翻訳活動 完全に外国人宣教師によるものであった。 宣教師は現地融合主義をとり、中国語を話し、中国の服を着て、時には儒学を借りてキリスト教を説いた。           当時の中国は鎖国状態であり、本国人                        の通訳者はいなかった。          漢文で多くの著作を残した代表的人物              マテオ・リッチ(1552~1610)         http://www.tabiken.com/history/doc/R/R179C100.HTM

中国における聖書翻訳 唐代初期に最初の中国語訳聖書 ネストリウス派の宣教師アルワーン 元代 フランシスコ派モンテ=コルビーノ『詩篇』、『新約聖書』 明代 マテオ・リッチらの布教 清代 マーシュマン・ラサール 1810年「マタイの福音書」 モリソン、ミルン 1823年 『神天聖書』 メドハースト 1854年 『新約聖書』 厳復  1908年「マルコの福音書」 

江南製造局翻訳館(上海) 1868年 清朝政府の翻訳出版機関として設立 中国・外国の学者59名(外国人9名、中国人50名)が参加。 イギリス4、アメリカ4、日本1(藤田豊八) 翻訳に際しては、外国の学者が訳しながら口述し、それを中国の学者が筆記しつつ潤色する方法をとった。 翻訳は中国語にすでにあるものについては中国語で、ないものについては新たに訳語を当てはめた。こうして創造された新語は『中西名目字彙』にまとめられている。 同翻訳館所蔵の統計資料では1909年 までに160冊を翻訳。 その内容は軍事、医学、鉱工業、農学、科学、数学、造船、歴史、政治、商業、物理学、天文学、音声学、光学など非常に多岐に渡った。

北京同文館 1862年、清朝初の官立外国語学校として設立 翻訳者、外交官を養成する目的 英語、フランス語、ドイツ語、日本語、ロシア語、数学、化学、天文学、医学などの学科 八年制の課程で14才以下の学生を募集 語学学習(前館)終了後に専門課程(後館)に進む 卒業後は政府の翻訳専門官、外交官、教員などに。 同分館付属の翻訳出版所で自然科学、国際法、経済学などの書籍を翻訳出版した。 1902年に北京大学の前身である京師大学堂と合併。

通訳と翻訳の結合による翻訳 本国人の翻訳者がなく、外国人翻訳者が自分の母語ではない原語へ翻訳する過程では、本国人による協力が不可欠となってくる。仏典あるいはイエズス会による翻訳、または十九世紀半ば以降の科学技術翻訳と宣教師の翻訳活動も、実際には本国人との共同作業によって行われたものであった。経文を原語で唱える僧の傍らで、意味の解釈と伝達を行った者は今で言う通訳者である。また、明清時代にイエズス会と士大夫による共訳も、宣教師の翻訳を士大夫が推敲し書き直す作業を行っている。しかし、最もよく見られた方式は宣教師が原文の内容を訳しながら口で伝え、それを本国人翻訳者が書き留めるというものである。たとえば『イソップ寓話』の二種類の訳本はいずれも外国人の口訳を本国人が筆録して完成したものだ。しかしながら、外国語を解さない本国人による口訳筆録の形式では、彼らの単一文化に依存する思考様式によって解釈され、目標原語の文化にかなり引きつけられた翻訳になることは避けられない。一般に、こうした形式は翻訳活動の初期にのみ見られる現象であるが、中国の翻訳史においては、常に主導的な地位を占める方式であったことが大きな特徴の一つとなっている。

翻訳者という概念 中国の伝統的な翻訳活動においては二カ国語の能力は必ずしも「翻訳者」の定義に不可欠の要件ではなかった。また、外国人翻訳者が主力であったことは「母語への訳出」はむしろ珍しいことであった。  明末清初の外来の翻訳者はすべて華語をよくする者たちであった一方、彼らの協力者たる中国士大夫階級には外国語を理解する者は皆無だった。当時の中国でそれよりも重要で大きな効果を有していたのは、本国の知識人の名を冠することによって翻訳書の権威付けが行われたとことである。  十九世紀中葉の中国は欧米列強の進出に伴い、西洋の学術を積極的に取り入れはじめた。宣教師たちも再び中国を訪れ、翻訳活動を展開。清朝末期の本国人翻訳者は外国人の助手として雇用された者たちであった。江南製造局翻訳館には多くの本国人翻訳者が雇用されていたが、彼らはそれまでの社会の主流である官僚の出身ではなく、伝統的な観念から言えば社会の周縁にあった人々であった。

伝統的翻訳観の劇的な変化 二十世紀初頭、十九世紀半ばまで 主流であった外国人の口訳を筆録する方式が激減、本国人が自力で翻訳を行うようになった。1840年から数十年間にわたる欧米列強の中国進出に伴い、十九世紀中葉から外国語学校の設立と海外への留学生派遣が開始。厳復などの新しい世代の翻訳者が出現する基盤を築いた。外国の言語と文化を学んだ若者たちの目は、官吏としての出世よりもむしろ中国の社会改革に向けられ、欧米と日本に積極的に学び、改革と啓蒙を提唱した。欧米と日本に学ぶうえで翻訳の重要性はますます高まっていった。  清朝末期には梁啓超が「小説救国」を提唱し、数年間の間に小説の翻訳が主流となっていった。小説の読者は一般大衆である。大量に印刷されて広く販売される小説は、経済の近代化と社会の文明化の波に乗って大きく発展し、翻訳市場に参入する翻訳者がますます増える結果を生んだ。

中国近代の翻訳論 厳復から魯迅まで 厳復の「信・達・雅」 魯迅の「硬訳」と梁実秋の批判 胡適の意見 林語堂の翻訳論 「文をもって国を救う」、「言語の改革は思想の改革である」 胡適の意見 国立編譯館での演説から 林語堂の翻訳論 芸術としての翻訳