コップ一杯の水 マルコ 9:30-50
何? 栄光の試食 どうやって? へりくだった心をもつ どこ? 聖書 1-8 KING 8:29 YOU ARE THE CHRIST 何? 栄光の試食 どうやって? へりくだった心をもつ どこ? 聖書 1-8 KING 8:29 YOU ARE THE CHRIST 8:31 CROSS 34-38 自分を捨て、十字架を負い 9 栄光の試食。 私たちも必要!! お父さんのような砕かれた、へりくだった心を持つ 信じます!不信仰な私を助けて下さい! 今はイエス様はここにたってるわけではないので、聖書は栄光の試食箱のようなものでそこから栄光を試食する必要がありまス。
マルコ 9:30~50 A.仕える王(30~32) B.つかえない弟子たち(33-41): 一番になりたい弟子たち(33~37) 「他宗派」を反対する弟子たち(38~41) C.仕える王の弟子の姿(42~50) 1.クリスチャンにつまづきを与えない(42) 2.自分につまづきを与えない(43~48) 3.世界につまづきを与えない(49~50) 今日はそれからちょっと離れて、仕えると言うテーマに行くんですね。いくつかの短い会話を組み合わせてるマルコは何を伝えようとしているのか?短い会話、出来事をこのアウトラインにまとめて見ました、今日はこれをそって話したいと思います。ハンドアウトの後ろにも同じアウトラインがありまスのでそこにノートを書いてもいいかもしれません。
A.仕える王 30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。 31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。 32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 8:31にあった同じような内容です。これから起こることを伝えようとしていたイエス様です。確かにすべての王です。しかしイエス様は十字架を背負う王です。仕える王です。弟子たちが考える王とこの王は違うものでした。弟子たちが知ってた王はみな人間で、弱いものでした。本当の王ではありませんでした。イエス様だけが本当の王で、弟子たちは本当の王の姿を学ぶ必要がありまス。 ここに今までになかった情報があります。それは「人の子は人々の手に引き渡される」と言うことです。これはユダがパリサイ人にイエスを売ったことを言ってるのではありません。この引き渡すと言う言葉はローマにもあります
ローマ 8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 普通の王でしたら、敵に負けて、殺されるとかならあるけど、神様は自らイエス様を人間に渡しました。イエス様は自分で十字架の道を選びました。すべて神様の計画とおりに行きました。なんでですか?私たちを愛してくださったからですよね。 弟子も同じように、イエス様を愛してるから、自分を捨て、十字架を負う必要がありまス。
32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 マルコ 9:32 32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
イエスに尋ねるのを恐れていた? 1.ペテロのように「さがれサタン」と言われ、他の弟子たちの前で恥をかきたくなかったから? 2.自分たちの大好きな人が死ぬ話をしてる 3.理解し始めてた? でももしかしてここでちょっとだけ理解し始めたのかもしれない。そしてその真実を認めなくなかったのかもしれないですね。だって自分達はすべてをこの方のために捨てた、王座を期待してる弟子たちです。でも待ってるのは王座じゃなくて、十字架と言われ続けてる弟子たちは「まさかね」と思うような気持ちがあったのかもしれない。 今の時代でも同じことが起こります。イエス様の愛、力、優しさを聞いてイエス様についていきたいと思う。しかし、話を良く聞くとこの地上で待つのは栄光ではなく、侮辱、迫害、苦しみ、まさに自分の十字架です。人間は栄光だけ欲しいんですよね。しかしイエス様の栄光への道は必ず死刑の道具、十字架を通してです。 それを知った人に二つの道があります。一つはイエス様の愛や優しさだけを強調して、本当のイエス様ではなく自分で作った、自分の理想のイエス様、プラスチックのイエス様を作って、具増のイエス様を作って、そのイエス様について行く。 それか弟子たちが最終的に選んだ道、「あなたのといれるなら何でも!」と言って自分をすて、自分の十字架を負い、本当の、本当の生きるイエス様についていった。今日私たちの前に同じ選択がおかれています。お願いします。自分の造ったプラスチックのイエス様ではなく、本当の今も生きてるイエス様についていってください。 弟子たちはなんと言えばいいか分からなかったそこで何を話し始めたのかと言うと:
B.つかえない弟子たち 33 カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」 34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。 マルコ9:33-34 カペナウムに向ってる途中弟子たちはイエス様からちょっと離れて何かを熱く話し合っていました。ペテロの家に着くと、イエス様は弟子たちに「____」・・・シーン!! 誰も口をあけない。 なんで?
マルコ9:35-37 35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。 37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」 この機会を持ってイエス様は弟子たちを教え始めました。 イエス様は1-8で見たように、この世の王です。しかし、この世の王であっても、天の王。神の国の王でなければ何も意味がありません。イエス様はどっちもの王でした。いつかはこの地球に王として見える形で支配します。今は神の国だけを見える形で支配してます。その神の国にはどのようなルールがあるのかイエス様は教えて下さいました。神の国では一番につかえたものが一番なのです。この世とは逆です。一番つかわれてる人が一番ですよね普通。 イエスは例えに子供を使いました。イエス様がこの時に話してたことば「アラム語」では子供と奴隷は同じことばでした。同じように一番地位の低い存在でしたからね。でもこの世の一番低い人間を受け入れ、そのものに仕えると、王の王主の主に仕えてるということです。神の国はそのような国です。今日主の祈りの中で「み国がきますように」と祈った時にそのような国を求めてるということです。まず自分からそのような国に住んで下さい。仕えるものとなってください。それによって神に仕えるものとなるのです。一番になろうとしないで、仕えるものとなってください。
B.つかえない弟子たち 38 ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」 39 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。 40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。 41 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。 38-41を見れば弟子たちはまだ神の国を理解していないことが分かります。 ある人がイエス様のみなによって悪霊を追い出していました。弟子たちは数日前に同じことをしようとして、失敗して、パリサイ人にバカにされてたのでもしかしてここで嫉妬してたのか分からないけど、その人を止めました。 その人は悪いことをしていませんでした。じゃなんで止めたんですか? 自分たちのグループに入ってなかったからですよね。自分たちは一番のグループ、イエス様のグループだ。神様はこのグループを通してしか働かない!だからあなたがやってることは良くないと言っています。 その時の弟子たちの神様は本当小さな神様でした。自分たちの外で神様が働いてるなんて考えられなかったんです。小さい神様だと思ってました。だから止めました。 それから2000年たってますけど、今のクリスチャンはまったく同じことをすることがあります。自分達が一番で他のグループは良くないと思う気持ちがありまス。今では宗派の間で良くあることです。みんな自分が一番だと思い、神様はじぶんたちをとおしてしか働かないとおもうのです。しかし、そうではありません。神様は大いなる方で、私たち、この秋田BBCは神様の働きのチョンなんです。世界中で私たちと関係ない団体、宗派を通して神様は働いています。ですから、秋田BBCのメンバーは「自分達は一番」と思わないで下さい。このへんはルーテル教会が多いので、ルーテルを使いますけど、ルーテル教会の祝福のために祈り、機会があれば、その教会にも仕えるべきです。今は離れて働くしかないにしても、永遠に一緒にいますからね。その準備をしたほうがいいですよ。 イエス様のように仕えるものになりましょう。コップ一杯の水を誰かにあげることさえも神様は見ていて報いて下さるわけです。 個人個人の私一番ムード。グループ、団体、教会の私たち一番ムード。そのようなムードは多くのものにつまづきを与えます。他のクリスチャンにつまづき教会を離れた人たちはいっぱいいます。ガンディーはその中の一人だとしってましたか?
ガンディー キリストは好きだよ。でもクリスチャンは嫌い。 クリスチャンはキリストらしくないから ガンディーは良く聖書をメッセージの中に引用してました。ある時スタンリージョーンズと言う宣教師がそのことについて尋ねました。なんでイエス様を信じないんですかと。ガンディーは答えました「______」 さらに聞くとガンディーはロンドンで勉強してたころに聖書とヒンドゥー教を勉強してました。クリスチャンになろうかなと考えてました。しかしある時南アフリカで教会に行こうとしまいした。だけど彼はインド人だったので、君のような人間はここには入れないよと言われた。彼はキリスト教を捨てて、ヒンドゥー教徒になりましたけど、死ぬまでキリストのことが好きだけど、クリスチャンは嫌いと言ってました。 日本にも同じような人は沢山いますし。この部屋にもいるかもしれません。 そのようなつまづきを与えた人は必ず仕えるものではなく、自分を一番にしたものです。イエス様のように生きなかった人です。なので、そのようなことがないようにここでイエス様の教えがあります。 まずクリスチャンにつまづきを与えないことが大事です。 ガンディー
C.仕える王の弟子の姿 1.クリスチャンにつまづきを与えない 2.自分につまづきを与えない 3.世界につまづきを与えない
クリスチャンにつまづきを与えない 42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。 石臼を首につけておぼれた人はクリスチャンにつまづきをあたえる人よりましだと言っています。どうやってつまづきをあたえないんですか?仕えることによるのです。またなんであの人は私に使えないんだろうと思うこともプライドの心から来てる発言、思いなので気をつけてください。ただ仕えるものとなってください。 イエス様はそうでしたし、つまづきを与えないように私たちもそうであるべきです。
自分につまづきを与えない 43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。 45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。 これも周りにつまづきを与えないためのものなんですけど、自分につまづきを与えないことによって周りにつまづきをあたえないですよね。だってキリストは私たちの嘘、レストランでの盗み、のために人間となり、死んで下さったのに、私たちはその同じ「小さな罪」の中に生きてることがあります。イエス様と私たちを見た人はどう思いますか?キリストは間違いなく罪をまじめにしてた。クリスチャンは罪をもてあそんでる。と言うことに気付きつまづくのです。 ですから自分に霊的な切断を行って下さい。本当に手、足、目と切らないで下さいね。基の病院に来た・・・・・ これをそのままとらえたら自殺することになりますよ。右手を切っても左手と言って・・・・ そうではないです。しかし人によって違うんですけど、みんな弱点があります。つまづきを与えやすい何かがあります。ある人にとってはそれはインターネット。ある人にとってそれはGEO。ある人にとってそれはある関係。そのようん自分につまづきを与えるものは切り落としてください。インターネットならアクセスできないようにして下さい。GEOならもう行かないで下さい。人によってちがうんです。 でも私たちはどうしますか?大丈夫私強いから。負けないから!なんですか?プライドです。先週の「信じます。不信仰な私を助けて下さい」と言うこころではないです。 そのようなものがあるなら、戦わないで。霊的に切断してください。
教会の中にこれだけ 罪があるのは信者は ガラガラヘビの ように危ない罪を、 ワタアメだと思って 生きてるからです 教会の中にこれだけ罪があるのは、信者はガラガラ蛇のように危ない罪をワタ飴だと思っていきてるからです。 おとといわたあめきメーカーを買ったので、この説教を準備してるときにこのことばを思い出した。本当そうだと思います。秋田BBCも小さい罪大きい罪のような考え方をしないで、すべての自分の中の罪と戦い、必要なときは霊的な切断をするようなものになりたいですね。
未信者につまづきを与えない 49 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。 50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」 49節は聖書の中の一つの難しい箇所です。勉強してて、15の解釈を見つけたほどです。ハンドオウトにも説明がありますけど、すべてはすべての人だと思います。そして火は試練だと思います。その試練によって塩気を付けられるというのは試練を通るとイエス様の味になる場合があります。キリストを心から愛し、いつもキリストの話を従ってる人の過去を見ると大抵そこには試練や苦しみがあります。 49節の場合その試練は霊的な切断からくる試練、苦しみだと思います。その罪との戦いから産まれてくる試練は私たちをイエス様の味にして下さいます。なんでですか?試練、苦しみ、は私たちの高慢な心を砕き、謙遜にするからです。イエス様に似たものと変えられます。 50節。その塩味、キリストに似た自分、キリストの関する話は一回付けられたからと言っていつまでものこるものではありません。今の塩をそうではないけど、昔の塩、死海からとってなにも清潔にしなければ、塩気がなくなります。 どうやって保つんですか?自分の中の罪と戦い。へりくだり。仕えるものとなる。完全に仕えるものとなることが出来れば、人につまづきを与えませんし、互いに和合してくらすことができます。 しかし弟子たちのように自分を一番にしようとしたり。自分のグループだけが神様に認められ、喜ばれ、自分の宗派だけが一番だと考えてしまってると、必ずイエス様のみなを汚すし、
水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。