1月21日(水)2限 第十三回「愛育養護学校より高石史子さんを迎えて」 子どもの居場所論 1月21日(水)2限 第十三回「愛育養護学校より高石史子さんを迎えて」
日程確認 1月29日(水) 2限 2月5日(水) 2限 以前お話しした通り、上記二回は授業があります。 1月29日(水) 2限 2月5日(水) 2限 以前お話しした通り、上記二回は授業があります。 1月29日の方は出席が難しい人も多いと思いますので、休んだ人のために資料を2月5日に配ります。それを読んで400字程度の感想をレポートと一緒に吉國まで送ってください。それによって出席点を補充します。 2月5日に資料を受け取れない人のために、pdfファイルをブログに上げるなどの方法を検討します。詳しくはブログを確認してください。
前回の感想より① 学級での教師は支配者ではない。でも基準は教師が決めざるをえない。そうしたらやはり大人の道徳観が子どもにつきつけられる。これはもう仕方がないことで子どもを全面的に中心として考えることは難しい。私がずっと前から感じていた違和感だが、今日の文章を読んで少し答えが見えた気がする。大人の道徳観で物事を決めつけてしまうのは仕方のないことだ。その時に大人と子どもで反発し合ったり、ぶつかり合う時があるだろう。全てが全て子どもに受け入れられるとは考えにくい。その時にこの資料にものっていたように、自分と異なる行動をとった子ども(他者)の意図や意志を考え、互いに学ぶ努力をすべきである。幼いから考えが幼稚とか、大人だから自分の考えが合っているとか、決めつけるのは良くない。子どもの意見も一人の人間として受け入れ、理解し合うことが大切だと感じた。 子どもにとってはゴキブリも大人から見たような汚いものではなく、興味の純粋な対象になっているのは面白いと思った。私もゴキブリがかわいそうだと思ったが、たしかに家で見かけたらすぐに殺してしまうだろう。この子のやっている遊びは一見残酷だが、それを見守ってもらえたことでこの子の居場所になったと思う。
前回の感想より② 生き物を殺す、殺さないについては道徳や育ってきた環境によって養われた価値観が大きくかかわっているのかなと思う。実際、私も小さい頃は蟻を泳がせて遊んだことがあり、よくは覚えていないけれど、大人に見つかると怒られるから隠れてやっていた覚えがあります。それが良くないことであることは知っていたのです。それは育っていく中で周りの環境が生き物をいじめてはいけない、命は大切にしようという道徳観を持っていたからではないかと思います。A君はゴキブリの生命力の強さというか、生き物の生きようとする力を試したかったのではないかと思いました。陸に上ろうとするたびに「また上ってくる!どこまでチャレンジするのだろう」と無邪気な好奇心が働いていたのではないでしょうか。A君がそのようにゴキブリを実験隊のように扱うのは大人としては止めるべきなのかもしれないとも少し思います。でもちゃんとした結論は出せません。難しいと思います。 子どもの世界を100%知るのは無理だけど、常に知ろうという行動をとれば、コミュニケーションも取れる一方、子どもの世界を少しずつ学んで理解できるようになるかもしれない。いきなり理解できないことを止めようとせずに、傍で付き合うことも大事だということを先生の経験から学んだ。このことは家族の中で親が学んだ方がいいなあ、と思うようになった。
前回の感想より③ 私達はもうほぼ大人になり、善悪や利害などで行動を見がちになっているので、実はその子どもにとって最高の学習の瞬間に出会っているかもしれないときにその見た感じの悪さから「いけないよ!こんなことしちゃダメだよ」と安易に言い過ぎていたことが分かった。質問なのだが、ゴキブリ以外の例として人に好かれるタイプの生き物だったら、子どもはどんな行動をし、どう考えるのか、大人はどう考えるのか・・ということが想像できなかった。別の事例についても少し学びたい。 一つ目はもしその場に大人がいるのであれば、大人としての知識を伝えてあげるのが役目なのかなとも感じた。命が大切であることを伝えずしてそのまま大人になっていいものかと思った二つ目は大人にとってはゴキブリなら殺してもいい、動物はダメ、人間はもっとダメと段階があるのに対して、子どもにとってはたまたま泳げるのがゴキブリであっただけで、命に対する段階がないのかなと思った。大人は常識や習慣をいつの間にか持ってしまい、段階ができているが、よく考えたら命というのは平等なはず。こう考えると大人よりも子どもの感覚の方が正しいのかもと迷わされた。一つ目と二つ目は矛盾している。しかし、その矛盾があるからこそ大人は子どもから学び、子どもも大人から学べるのだと思う。何が正しいのかはないかもしれないけど、探していかなければならないのかなと思った。
前回の感想より④ 客観的に見て子どものしていることが悪いことだと感じてもただ怒るのではなく、それがいけないことだと思ってもらうためにどう行動すればいいのか、気をつけなければいけないと思いました。子どもの遊びから大人が学ぶことも大切だと思いますが、大人が遊びを学びにする手助けも大切だと思いました。 先生の「お墓作ろうか?」の一言に私は大きな意味があったと思う。先生があのときそれを言わずに遊びが終わっていたらAの心には「楽しかった」という感情しか残らなかったのではないかと感じた。私も実習中子どもたちが「蜘蛛の巣バスターズ」という遊びを楽しんでいたことに違和感を覚えた。蜘蛛の巣を木の棒に集め、ぐるぐる巻きにしていく遊びだった。子どもたちはとても楽しんでいて、自慢げに蜘蛛の巣たくさん集まった棒を見せてくれた。しかし、蜘蛛の巣は蜘蛛にとっては大切な住み家であり、その住み家を奪っていることには変わりがない。そこで私はどう声をかけるべきか迷いながらも「蜘蛛のお家、なくなっちゃったね」と少しさみしげに声をかけた。すると子どもたちは「確かに、ごめんなさいしなきゃ」と真剣な表情になった。次の日、子どもたちは「先生、蜘蛛のために神社でお参りしてきた。もうしないよ」と言ってくれた。私は子どもたちがこの遊びから何かを学び、変わってくれたのだと思い、嬉しくなった。
前回の感想より⑤ 私は昔から、虫でも鳥でも動物でもむやみに殺したり、遊びに使っている人たちが大嫌いでした。そうは言っても、蚊に刺されたらパチンってたたいて殺してしまったりもするけれど、意味がなく殺すのは本当に嫌いです。だからお話を聞いていて、何で先生はAくんの遊びを止めなかったんだろうと思ってしまいます。私的には考えられないです。A君の行動は命を軽く見ているし、見てるのが楽しいから別に結果はどうなってもいいや。みたいな気持ちがあるように思えてしまう。また、最後の先生の声掛け。「お墓つくろうか?」というのもそれ自体はいいと思うんだけど、「どうして死んでしまったんだろう」「ちょっとかわいそうな(残酷な)ことをしてしまったね」とか、そういう言葉も必要だったのではないでしょうか。子どものやることは必ず将来において大きな意味があるから。そういう言い訳をして注意できていないだけだと思います。命を奪っているんだということを彼自身、もっとしっかり自覚しないといけないし、周りの大人も彼の感覚の微妙なずれに気付いたなら注意してあげてほしいです。 一つだけ疑問がある。それはAとゴキブリの関わり方が異なっていた場合、先生はどのようにするつもりだったのか知りたいということだ。ゴキブリがAの行為によって死ぬことがなく、そのまま生きていた場合には先生はどうするつもりだったのでしょうか。やはり子供が見ていないところで殺してしまうのでしょうか。よろしければ教えてください。
前回の感想より⑥ 子どもの居場所というと子どもと子どもの間、子どもと大人の間の空間や時間にあるというイメージがなんとなくありましたが、子どもと生き物(今回はゴキブリ)の間にも居場所が存在したのかなと感じました。 性善説を唱えるわけではないが、子どもにも声明を大切にする気持ちと言った道徳観は必ず存在すると思う。もちろんゴキブリと犬では変わるという基準めいたものもあるだろうが、A君の何気ない一言にもあったようにはっきりとはしていないだろうが、道徳観は存在するのではないだろうか。そう考えたとき、もし今回の対象がゴキブリでなかったとしてもそれは子どもが自分の道徳観と照らし合わせてて悪いと思い、分かっていながらの行為として表現されたものになるのではないか。悪いと分かっていながらも行ってしまう子どもの行為から心の状態を考えようとするとき、その行為を止めることは必ずしも大人の余計な口出しにはならないだろう。子どもの行為を心の表現とみていそれを止めることも心の状態を考えた結果にもなるのだろう。 いいこと?悪いこと?その判断基準を決めるのは誰?道徳的に考える?すべて考えなければいけないのか?理解する過程ってなんだか少し居場所に似ている気がした。自分は他者に対して相対化されるって難しくてあまりつかめないです。
前回の感想より⑦ 最初私はA君がゴキブリのことをおもしろい動きをするおもちゃのように考えていたのではないかと思いました。しかしA君はゴキブリが死んだ後お墓を作りました。ただのおもちゃにお墓は作りませんよね。この時点でA君にとってゴキブリは命あるものです。そう考えていくとA君の行動にはおかしな点が見られます。お墓を作るという行為を通してゴキブリの命というものを再認識したのではないかと思います。彼はこの後墓参りなどをやったのでしょうか?それとも墓をつくって満足してゴキブリのことなどは記憶から消えてしまったのでしょうか?ちなみに私は飼っていた金魚が死んでしまった後お墓を作り、一週間ほどは花を供えたりはしましたがすぐに忘れてしまいました。実際には教師になった時、この話のように一人ひとりの話を聞いて行動を理解しようとすることは難しく、大変だと思います。でも、子どもの行動を否定せずに見守っていけるような教師になりたいと思います。 砂場で穴を掘って頭を突っ込んでいる子がいた時に、私の中では危ないし、砂が口の中に入ってもよくないし・・と考えて止めたい気持ちですが、本人は砂の感触を味わって楽しんでいました。このように子どもと接していると「やってはいけない」「よくない」と言うべきか迷うことが多くあります。その迷いで決断できず、うまく子どもたちを見られなかったと感じることがありますが、今日のお話を聞いてその迷い自体が子どもに伝わっていてそこから子どもなりに感じ、学んでいることがあると気づき、この「迷い」を前向きに捉えられました。
前回の感想より⑧ 子どもとともに学ぶことは大切なことである反面、難しいことだと感じた。誰かと“ともに”というとき、そこには相手を理解しようとする努力が必要不可欠だ。しかし、私自身、どうしてもそれができないことがあった。それは相手から明らかに嫌われている。否定されていると感じていた時である。努力や工夫はしたが相手は私に対して心を開いてくれることは決してなかった。この経験から思うが、相手に寄り添いともに生きることには限界があるのではないか。実際私自身、その時は相手のことを意識しすぎて疲れ、精神的に強いストレスに悩まされた。これから教師になる上でそういう相手(子ども)との距離の取り方や接し方をどうしたらよいか、自分なりに考えてみたい。 私はサークルで子ども会のお手伝いをしている。子どもが自ら考えた遊びはとても不思議で、「どうしてそれが面白いんだろう?」とつい思ってしまうこともある。子どもと接するとき、私はなるべく自分が小学生だったときを思い出そうと努力している。それでも子どもの気持ちになるのは難しいけど、この努力が少しでも距離を知覚すると思っている。以前、父に「子どものしつけって大変?」と聞いたことがある。「大変じゃない。自分が悪いと思ったら駄目だと教えればいい」と言った。私はその時、なるほどと納得したのだが、今回の事例を考えてみて、子どもの行動には何かしらの意味があるとわかった。
前回の感想より⑨ この授業の流れの中で「自分を表現するということは居場所」という感じがあったけれど「ゴキブリを泳がせる遊び=居場所」とはならなそうだなと思った。自分を表現できるということは全てが全て居場所にはつながらないのだなと思った。もちろんこの遊びを行えている愛育と言う場所は居場所となっていると思うが。大人が生き物を殺す時、そこには人間にとっての利害が絡んでいると思う。しかし、A君には利害はない。どちらかというと純粋な興味、研究者の目のようだと思った。研究者に聞くとこのときのA君の理解につながるのだろうか。 Aのように生き物を水の中で泳がせるという経験が私を含めて二人いた。その時、何を思ってそういう風に行動していたのかは全くわからない。でも私もAのように最後はお墓を作って飾りつけをしてという遊びだったように思う。いつからか、誰に言われたわけではなく、その行為が「かわいそう」で「悪い」ことだと思うようになり、やらなくなった。(興味がなくなったという部分も大きい気がするが)三つのCについて、最初私には「つながり」の部分が見いだせなかったのですが、Aが「ゴキブリさん」と読んでいるところで、Aにとってはただのゴキブリではなく、たった一つの存在になり、つながりが生まれた、だから「ゴキブリさん」という呼び方になったのではないかという話になり、Aにとっては深い意味はなかったのだろうけど、なるほど、ととても感心してしまった。
前回の感想より⑩ 私はA君がゴキブリを殺すまでの心境は成長において必要不可欠なものであって、最後にお墓を作る作業や「ゴキブリさんに悪かったかな」というコメントは先生が授業中におっしゃっていた「子どもは何かを言う前に分かる」のように先生の意思が子どもに伝わったからそのような行動をとったのだと思います。仮に子ども同士、あるいはA君一人だけの場面だったらそう思ってもなかったかもしれません。もしくは最初から怖くてゴキブリを池まで入れられなかったかもしれません。逆に私は文章を読んで子どもより先生がそこから考えたものがすごく興味深かった。指導というのは場合によってはできるものもできなくなるのではないかと思います。子どもに押し付けずに自ら善し悪しを判断できるように指導することが大切だと思いました。 カブトムシを捕まえるのはかわいそうだから話してあげてほしいと言った女の子がいたのだが、その言葉が出たのはそういうことが悪いことだと考えているからなのか、本当にかわいそうだと思っているからなのかが分からなかったという話が出た。私は道徳心とはなんだろうかと分からなくなってしまった。もし子どもに生き物を殺してはいけないのはなぜと聞かれたら生き物は大切にしなければいけないからと答えるけど、どうして生き物は大切にしなければいけないのだろうか。
前回の感想より⑪ 子どもの頃、残酷だなあと思っていたけど虫の足を取ってみたり、蟻の穴を埋めたりということをしていた人もたくさんいたように思う。それを教育の面からのアプローチによって「悪いこと」となるのであって、「悪いこと」というのも創られたものなんだろうと思う。きっと誰だって破壊の感情を持っていて、それに対して罪悪感を抱いたりして成長していくのだと思う。教育された私たちにしてみたら「ひどい」としか感じられないけど、本人たちにはまた別の感情があるのだろうと思った。破壊の感情を拒否、否定してしまうことは多いけど、破壊の感情も認めることが大切だし、そこと向き合っていくことが必要だと思いました。 「命の格付け」の概念は動植物を食べることなどを通して無意識に形成されていくものではないかと思う。ゴキブリなどの虫は犬や猫と違って「感情」の存在の有無が定かではないから言い方は悪いけど殺しやすいのだと思う。人間は何らかの負の感情を抱いていて、完璧な人間はいないと思う。私も私をいじめていた人をめちゃくちゃにしていたぶりつけて殺すシーンを何度も想像していた時期があった。でもそうしたら加害者のレッテルがつきまとって私の負けになってしまうと思い、それなら自分を殺してしまった方がいいと本気で思った。しかし、それでも自分の負けになってしまう。でも、少し判断を間違えていたら想像が現実になっていたかもしれない。こうした想像を虫や動物で再現し、自制を保つということも考えられる。
前回の感想より⑫ 私も小学校低学年くらいまで昆虫をいじめていた記憶がある。アリの巣の中に水を流し込んだり、トンボの羽をむしったりと、今考えればとても残酷なことだが、当時は興味や無邪気な好奇心からで後ろめたい気持ちはほぼなかったと思う。その後、児童文学などで昆虫や動物がまるで人間のように考えたり行動する作品を読んで、あの時殺した虫も痛かったのかなと初めて罪悪感が生まれた。これは人の言葉を介さない虫や動物に対して感情移入しているだけであって、本当は何も感じていないかもしれない。しかし、自ら罪悪感を生むような体験をしないと大人から「それは悪いことだよ」と言われても「何で?」と疑問を持つだろう。 生き物に対する実験は私もしたことがある。幼稚園に行く前だった気がするが、公園で遊んでいてアリの巣を見つけ、たくさんアリを踏んだり、アリの巣をふさごうとして土をたくさんかけた。しかし、手をアリに噛まれて、痛かった。その時、アリが怒ったのだ、と思った。それから生き物に対して乱暴なことはしなくなった。生き物への行為から学ぶことは多いのではないかと思う。
前回の感想より⑬ 私も小さい頃、様々な生き物を殺して遊んでいたことを思い出しました。今は到底触れそうもない虫を平気で触っていたような気もします。いつからこのような残酷な遊びをしなくなったのかと考えたとき、きっかけは祖父の死であるように思えます。小学五年生の時に祖父が亡くなりました。初めての身近な人の死でした。そのとき、とても悲しくなったのを覚えています。家族もみんな泣いていました。その時に特に命の尊さや命の終わりについて考え直したわけではありませんが、初めての身近な人の死に人はいつか死ぬものであり、命がいくつもあるわけではないことを自然と学んだのだと思います。それからというもの、意識的にそうしたわけではなく、残酷な遊びをすることがなくなりました。そして、今まで平気で触っていた虫が気持ち悪く感じられ、触れなくなってしまったりするようになりました。グループワークで話したところ、その原因は自分以外の生き物の存在に気が付いたからではないかということです。自分とは違う生き物と認識した時、その存在に対して気持ち悪さを覚え、虫という生き物がこわくなるのではないでしょうか。 質問:Aはその後、生き物とどんな関わり方をしていったのでしょうか?同じような遊びを繰り返しましたか?(※ Aと生き物とのかかわりはその後も様々な展開を見せます。詳しくはブログの方でお答えします。 吉國)
今日の授業の進め方 今日は僕が現在非常勤講師を務める東京都私立愛育養護学校(特別支援学校)より高石史子さんに来ていただきました。 「言葉とコミュニケーション」というテーマでお話をしていただきます。前回同様、「他者理解」に焦点化した内容になります。 橋本さんのときと同じように、僕も参加した対談形式で進めたいと思います。 話が終わったらいつものようにグループワークを入れますので、その中で高石さんや僕に聞いてみたいこと、ぶつけてみたい意見などを考えてみて下さい。 グループワーク終了後、もう一度全体で話をする時間を設けますので、その中で皆さんからの質問や意見に応えていきたいと思います。
はじめに大事なお願い 今回は愛育養護学校の実践を題材に子どもの居場所について考えます。管理職及び高石さんのご厚意のもと、このような機会を設けることができました。 今回は学校名を明らかにした上での話となりますので、今までとは事情が異なります。 子どもの個人名はわからないように紹介しますが、学校名が明かされているので情報の扱いには慎重である必要があります。 従って、ツイッター、Facebook、ブログ、その他、不特定多数の人が見る可能性のある媒体に授業の内容について書くことは絶対にしないでください。今回は子どもにかかわることについてはこの授業のブログへの書き込みをしないでください。 今回、高石さんが用意してくれた資料は回収させていただきます。面倒をおかけして申し訳ないのですが、感想を書いているときに回収して回るので、グループの代表の人は人数分集めて吉國に手渡してください。
この授業で気をつけてほしいこと 「○○一般」について極力語らない。一般化するときには気を付ける。 グループの意見をまとめなくていい。 ・話せないときには無理に話さない。 賛成、反対で他人の意見を評価しない。
グループワーク 今日の話を聞いて感じたことを自由に話し合ってみて下さい。 今日はせっかく高石さんにお越しいただいているので、皆さんから聞いてみたいことをぶつけることのできる時間をグループワークの後に設けたいと思います。 そこで今日の話の感想を交流しつつ、高石さんに聞いてみたいことや、ぶつけてみたい意見などを出し合ってみて下さい。子どもたちのこと、教師としてどのように彼(女)らの成長を捉えてきたのか、教師という仕事についてなど、どんなことでも結構です。
HP http://moral-education.seesaa.net/ 感想シート 今日の授業の中で考えたこと、疑問や質問、グループワークの中で話し合ったこと、授業に対する要望、なんでもかまいません。 感想の紹介は匿名で行いますが、プライベートなことにかかわるなど、どうしても次回の授業で紹介してほしくない部分などがあればその旨を記してください。 必ず、名前、学籍番号を書いて出してください。 授業中に伝えきれなかった質問、意見はメール、もしくはブログを利用してください。 メール y_yoshikuni@chiba-u.jp HP http://moral-education.seesaa.net/ ユーザー名 moral-education パスワード 449281