通訳翻訳論 第4 回 翻訳・通訳の規範
言語について 「一般言語学講義 」(ソシュール) ・ランガージュ(langage):言語活動。人間のことば を使う能力と、ことばを使って行なう具体的な活動。 ・ラング(langue):言語。言語活動の歴史的・社会的 所産として同じ共同体の成員が共有する記号体系。 システムとしての個別言語。 ・パロール(parole):ラングの規則にしたがって個人 が意思を表現・伝達する一回ごとの発話行為。 ○ 翻訳通訳の対象となるのは「パロール」であって、 「ラング」ではない。
翻訳・通訳とは? 言語学:ラング(個別言語)を対象として研 究 翻訳・通訳:パロールによって成立する行為 パロールの拠って立つところ:個別言語 翻訳・通訳はラングに対する知識を基礎とし、 パロールを扱う 翻訳・通訳のプロセス:起点言語(SL)の 「解釈」→目標言語(TL)への「転換」→文字 または音声による「表出」
翻訳・通訳が担う責任 原文に対する忠誠(送り手への責任) 訳文に対する忠誠(受け手への責任) 個別言語に対する忠誠(言語変革への責任) 語から語へ一対一対応 文構造、テクスト結束性を反映 SL受け手とTL受け手に同じ反応 テクスト・タイプ、言語使用域と社会的位置づけ 訳文に対する忠誠(受け手への責任) 5W1Hを伝達 受け手に応じた、場に相応しいスタイル 個別言語に対する忠誠(言語変革への責任) 新たな語彙、新たな概念、新たな思想の輸入者
二つの異なったコードによる二つの等価なメッセージ Source Target 発信者:伝達したいメッセージをコード化する(M1) 翻訳者:コードを手がかりにメッセージを解釈する 解釈して得たメッセージをもとにコード化する 受信者:コードを手がかりにメッセージを解釈する(M2) 翻訳の要件: 翻訳はコードの解釈を伴う行為であること。 M1とM2が等価であること。 ユージン・ナイダの提唱した“dynamic equivalence”
等価なメッセージ? □意味・意図 ■音声認識 ■音声認識 □語彙選択・文構成 ■語彙・文構成分析 ■語彙・文構成分析 □意味・意図 ■音声認識 ■音声認識 □語彙選択・文構成 ■語彙・文構成分析 ■語彙・文構成分析 □音韻構成→発話 ■発話の意味・意図理解 ■発話の意味・意図理解 ↓ □語彙選択・文構成 □その場の状況(コンテキスト)による調整 □音韻構成・発話 通訳者が伝達する内容 聞き手の伝えたい内容は、「ことばの音、文法構成、用いた語彙」ではなく、「発言の意 図と意味」である。上図で示したような挨拶語は相手に対する敵意がないこと、これから 何かを話し合いたいという前触れ等々の意図を含んでいる。通訳の情報伝達とは、発 話において表出された音声記号を手がかりにして、その場の状況を参照しながら発話 の意味や意図を分析理解し、その意味と意図を伝達するのに最も適切なTLの語彙を 選択し、TLの語法に従って新たに発話を構成し、音声表現を用いて、聞き手に伝える ことである。このとき話し手のメッセージに含まれる内容、あるいは話し手が聞き手の頭 の中に産出したいと願っているメッセージと、訳し手が伝え、聞き手の頭に生じたメッセ ージあるいはイメージがほぼ同等であることが、正確な通訳の条件となる。即ち、通訳者 による情報伝達は、表層に現れた文字通りの意味を取るだけでは不十分で、必ず深層 構造まで分析する「深い処理」を必要とする。
翻訳における等価と効果 語彙、文法のレベルで価値が完全に等しい訳出 を行うことはできるか。 Traduttore, traditore 数式や化学元素記号などはもともと言い換えを必要 としない。 自然言語におけるテクストの形式的な等価は同じ文 法形態を持つ言語間でも不可能。 Traduttore, traditore 翻訳者は裏切り者 翻訳者は反逆者 訳者はやくざ
等価なメッセージ? 適切な訳語 適切な文体 原文の結束構造と結束性の維持 テクストの目的を達成(スコポス理論) 適切な言語使用域 SLテクストをTL個別言語に移植 受け手に応じた柔軟な対応と選択
「言語使用域」(Register)という概念 あるメッセージが発信者から受信者に正確に伝 達されるためには、その場に適した「言語使用 域」が必要 SL(M1)の社会における位置 =>TL(M2)の社会における位置 場面とテクストの内容にふさわしい表現 ● ●
言語使用域 SLテクストの社会的位置づけと文体を保 存したTLの産出 「相手の口ぶりによって訳す」 翻訳された論文もまた論文でなければならな い 訳された歌詞は歌えなければならない 首相の演説は演説らしく 「相手の口ぶりによって訳す」 もしこのテクストを書いたのがTL母語話者なら 聞き手の期待する談話の“格調”とは
翻訳の等価と効果 二葉亭四迷の翻訳 翻訳小説と役割語 I love you. → 「死んでもいいわ」 日本語における役割語の使用とその効果 誰のセリフですか? 「わしはとっくに知っておったんじゃ」 「わたくしはとうに気づいておりましたわ」 「わたし、それ、知ってたアルよ」 「オウ、ソノコト、ワタシ、シッテマシタネ!」 「そんなこたぁ、こちとらぁ、とっくのとんまにご存じよ!」 1.老博士 2.お嬢様 3.謎の中国人 4.外人 5.江戸っ子
翻訳における「役割語」の役割 メリット デメリット 誰が話しているか分かりやすい TLの読者に受け入れやすい 翻訳の省力化(工夫が要らない) ステレオタイプに陥りやすい 安易な翻訳態度を助長する オリジナルにない味付けをしてしまう 外国人スポーツ選手の話し方?
SLテクストをTLの社会に移植する 言語内翻訳 言語間翻訳 古典の現代語訳、外国語訳 同じ個別言語内で言い換える 受け手の解釈による差異が大きくなりがち 言語間翻訳 異なる社会において異なる言語で生み出され た作品を翻訳する 古典の現代語訳、外国語訳 言語内翻訳と言語間翻訳にまたがる翻訳
古典現代語訳の例 『桃尻語訳 枕草子』 橋本治 河出文庫 訳者のことば:これは正真正銘の“直訳”、言葉を補っ て訳すということはしていない。 『桃尻語訳 枕草子』 橋本治 河出文庫 訳者のことば:これは正真正銘の“直訳”、言葉を補っ て訳すということはしていない。 原文:冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜 のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、 炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行 けば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。 翻訳:冬は早朝(つとめて)よ。雪が降ったのなんか、 たまんないわ!霜がすんごく白いのも。あと、そうじゃ なくても、すっごく寒いんで火なんか急いでおこして、 炭の火持って歩いてくのも、すっごく“らしい”の。昼に なってさ、あったかくダレてけばさ、火鉢の火だって白 い灰ばっかりになって、ダサイのッ!
持統天皇の和歌 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 春すぎて 夏来(き)たるらし 白妙(しろたへ)の衣(ころも)ほしたり 天(あま)の香具山(かぐやま) 現代語へ「直訳」 春が過ぎて夏が来てしまったようだ 天の香具山に白い衣が干してある
持統天皇が現代の歌人なら? ゆれる せんたくもの お日さまの においが一杯。 深みどり色の 夏のはじめ。 松村よし子『新釈・平成イラスト版 恋の百人一首』 (文化出版局)
持統天皇が 英語/中国語話者なら? Spring is over and the summer seems to have come now, I look at white dresses spread to be dried up in the sunshine at the foot of mountain Kaguyama. 春方姗姗去,夏又到人间 白衣无数点,晾满香具山 ※訳し戻し(back translation)してみよう!
文学以外の翻訳・通訳 目的達成をめざす翻訳・通訳 情報を伝達する翻訳・通訳 送り手が期待する反応を引き起こす 交渉、指示などの通訳 標識、案内図、注意書き、 操作マニュアル……などの翻訳 情報を伝達する翻訳・通訳 新聞雑誌記事の翻訳、報告の通訳など
もしこのドアが中国やアメリカにあったら? 伝達の目的、予測される結果などにより起点言 語から目標言語への対応が決定される 立ち入り禁止 関係者以外 STAFF ONLY 闲人免进
たまに変な翻訳も見つかる……
一義的に訳語が決まる語彙や表現 VS 様々な解釈を許容する語彙や表現 翻訳とコード制約 一義的に訳語が決まる語彙や表現 VS 様々な解釈を許容する語彙や表現 科学技術用語、テクニカルタームなどは訳語へ の置き換えを正確に行うこと 文学、とくに詩歌では言語資源の活用度が大き いため、様々な工夫が必要になる 翻訳理論から言えば高度な技術翻訳は容易 翻訳の実践から言えば必ずしもそうではない
翻訳通訳と言語コミュニケーション 翻訳通訳にはかならず発信者・翻訳者・受信者 が存在する 翻訳通訳では三者が共有する知識が問題 三者二言語モデル 翻訳通訳では三者が共有する知識が問題 言語の理解と産出を支える知識 言語知識 世界知識 場の知識 専門知識 翻訳通訳はコミュニケーションの問題として捉え ることができる
三者二言語モデルの図式(Kirchhoff.1976)
翻訳について 「翻訳の言語学的側面について」 ヤコブソン 「翻訳論における誤った設問と正しい設問」 コセリウ 「翻訳者の課題」 ベンヤミン 「翻訳の言語学的側面について」 ヤコブソン 「翻訳論における誤った設問と正しい設問」 コセリウ 「翻訳者の課題」 ベンヤミン 魯迅の翻訳論 ー 社会変革と翻訳 ー 林語堂 ー 翻訳はアートである ー
「翻訳の言語学的側面について」 ロマーン・ヤコブソン 「翻訳の言語学的側面について」 ロマーン・ヤコブソン 言語内翻訳 rewording 同じ個別言語内で 解釈する→言い換え 言語間翻訳 translation 異なる個別言語に よって解釈→いわゆる翻訳 記号法間翻訳intersemiotic translation 異な る記号体系の記号によって解釈する →移し 換え
語彙の翻訳可能性と不可能性 バートランド・ラッセル 「チーズについて、言語による以外の知見 を持たないならば何人もCheeseという語 を理解することはできないであろう」 「ある語を理解する」とはどういうことなのだろう? 自分の目で見られる、さわれる物しか我々は理解 できないのであろうか? あなたは「神」や「幽霊」や「人魚」を理解できます か?
ある語彙が訳出言語にない場合 既存の語彙で説明する 新しい語彙を作る 類似したものを利用する そのまま借用する ねじ→回転する釘、チョーク→字を書くせっけん 新しい語彙を作る 万年筆、個人、持続的発展 類似したものを利用する 中華そば、活動写真、電気馬車、陸蒸気 そのまま借用する コンピュータ、チーズ、プライバシー、アイデンティティ
文法範疇の問題 ロシア語の双数の概念 (1)伝達することは可能か? (2)全て伝達する必要があるのか? 1、2、3以上に区別する 英語は単数(1)と複数(2以上)の区別のみ。 では“She has brothers”はロシア語に訳せるか? (1)伝達することは可能か? (2)全て伝達する必要があるのか? 彼女には二人かあるいは三人以上の兄弟がいる。 個々のテクストの全体的な意味に影響を与えるかど うかによって伝達の必要性が決まってくる。
「翻訳論における誤った設問と正し い設問」 コセリウ 「翻訳論における誤った設問と正し い設問」 コセリウ 誤った設問 翻訳および翻訳行為の問題性を個別言語(ラング)に 関わる問題性として扱う 翻訳言語には原点で表現しようと意図されていること を全て再現する手段がないため、翻訳はその本質上 すでに「不完全な」ものであるとする 個別言語に関わる技術としての翻訳(言い換え)を翻 訳者の行為と同一視する 翻訳には、抽象的なレベルでの最適の普遍性がある と仮定する
翻訳は個別言語の問題か 個別言語間にはもともと一対一、一対多で対応 する語はない。だが単語や文構造は翻訳されな いのである。翻訳されるのは個々のテクストであ って、テクストは個別言語を超えたものである。 翻訳によって保持されるべきもの 素材関連:テクスト中で指示されている事物 意味:テクストで述べられている事それ自体 意義:テクストで述べられた事によって伝達または表 現しようとしている意図
翻訳は本質的に不完全なものか ある語を聞いたときに起こる何らかの感情 言語表現と結びつけられる連想(表現のしかた) 感情は語によって起こるのではなく実体によって起こる 言語表現と結びつけられる連想(表現のしかた) 適合させる 解釈の二様性を持つ言葉遊び(かけことば、地口) 素材関連と意義の両方を保持することはできない 個別言語におけるメタ言語的使用 翻訳の中にそのまま持ち込む 翻訳の対象となるのは言語化されたことのみ 翻訳には本来、合理的な限界がある 言語外的実体は翻訳できない
技術としての翻訳と芸術としての翻訳 言い換え:個別言語に関する技術としての翻訳 翻訳行為:翻訳者が行う芸術としての翻訳 素材関連の点で等価値のものを確認する行為 翻訳行為:翻訳者が行う芸術としての翻訳 言い換える、または言い換えない 新しい概念を表す表現法を創造する 適合させる 模倣する 説明する 注や解釈をつける 理論的な意味での「不可能な翻訳」:言い換え 実際に存在する翻訳:翻訳行為 翻訳行為には理論的な限界はない。個別言語に関する経験 的な限界があるのみである。
抽象的レベルでの最適の翻訳? 翻訳行為:目的を持ち、歴史的制約を受ける 翻訳の理想 参照「聖書翻訳の歴史」 読者、種類、時代背景、翻訳の目的等に応じて、最適 な翻訳はそのつど異なる 翻訳の理想 参照「聖書翻訳の歴史」 ルター(1522年旧訳聖書をドイツ語に翻訳) 聞く相手に応じて(人々の「口ぶりを見て」)翻訳する必要性 『表現の原理』 ファン・ルイス・ヴィヴェス 1533年 重視されるのは何か(意義、表現法、意義と表現法)で差異 言葉どおりに訳すか、自由に訳すか(直訳か意訳か) テクストの性質、テクストの部分部分の性質に応じて適用する 普遍妥当の翻訳の理想などない
ヴァルター・ベンヤミン 「翻訳者の課題」 翻訳は原作を理解しない読者のために行われる のではない 原作は読者に奉仕することを目的としただろうか 翻訳は作品の「死後の生」によって表出する 翻訳は純粋言語への志向を持つ 翻訳は純粋言語の種子を成熟させるという課題 においてなされるべきものである 岩波文庫『暴力批判論』所収
同化する翻訳と異化する翻訳 「同一性の倫理(an ethics of sameness)」 「差異性の倫理(an ethics of difference)」 Lawrence Venuti [The Scandals of Translation] good morning は朝の挨拶であるから同一の意味 を持つ日本語「おはよう」に置き換える立場が「同一 性の倫理」、言葉や文化の差異を明確に示すため 「いい朝だ」と置き換える立場が「差異性の倫理」 同化(domestication)、異化(foreignization) 文化的差異を感じさせない「すらすら読める翻訳」と 起点文化の独自性を保つ「違和感のある翻訳」
社会変革と翻訳 魯迅 訳者の能力不足と、中国語本来の欠陥から、 訳し終えて読んでみると文章が晦渋で難解 のところすらまことに多い、複合句をばらばら にすればそれでは原文の語気が失われる。 私としては、やっぱりこのような硬訳をするし かしかたがない、でなかったら翻訳をあきら めるほかない。残されただひとつの希望は、 読者がただ我慢して読んでいってくれること だけである。 『文芸と批評』1930年
社会変革と翻訳 魯迅 「私の訳書は、もともと読者の「爽快」を得よう とするものではなく、それどころかしばしば不 愉快を与え、甚だしきに至っては人を悩ませ、 憎悪させ、憤らせるものである。……いろいろ な句法は新しく作る--悪く言えば無理に作 る必要がある。中国文が新しく造られることを 期待するが故に、いままでの中国文には欠 陥があると言うのである。 「『硬訳』と『文学の階級性』」 『二心集』1931年
社会変革と翻訳 魯迅 永遠にこのボヤけた言葉を使い続ければ、 文章を読んで大変すらすらと読めたような気 がしても、結局残るのはボヤけた影でありま す。この病気を直すために私はひたすら苦く て異様な句法を詰め込んでいく。 「『硬訳』と『文学の階級性』」 『二心集』1931年
翻訳はアートである 林語堂 翻訳の芸術が頼るのは、第一に翻訳者の 原文の字句と内容に対する徹底的な理解、 第二に翻訳者の非常に高度な母語の運 用力、つまり達意の中国文を書く能力、第 三に翻訳の訓練を積むこと、翻訳者は翻 訳の基準と処理の方法について正確な見 解があること、である。この三者を除いて 翻訳にはいかなる規範も存在しない。
翻訳はアートである 林語堂 翻訳は個人の自由な裁量に依存する芸術だ。 翻訳には絶対的正解はない 忠実の四基準 逐語訳:読者の理解を配慮しない 翻訳はアートである 林語堂 忠実の四基準 逐語訳:読者の理解を配慮しない 翻案(超訳):原作者の意図を歪曲する 以上は「翻訳」とは呼べない 「直訳」、「意訳」という用語はやめよう 語句から語句へ訳すのではなく、文章から文章へ訳す 翻訳は個人の自由な裁量に依存する芸術だ。 翻訳には絶対的正解はない
今日のまとめ 翻訳は可能か、不可能か 翻訳の規範はどこにあるのか 理想的な翻訳、模範的な翻訳 可能とも言えるし、不可能とも言える 何を言っているのかを伝達する翻訳であれば可能 どう言っているのかを完全に再現するのは不可能 翻訳の規範はどこにあるのか 翻訳は個々のテクストについて行うべきである 個々のテクストの読者、時代、目的等によって様々に 異なる翻訳が求められる 理想的な翻訳、模範的な翻訳 絶対的な理想の翻訳はない