イエスは人々の幸福を 願われた 2016年第3期第7課 8月13日
第 7課 8月13日 イエスは幸福を願われた 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、 自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、 めん鳥が雛を羽の下に集めるように、 わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」 (マタイ 23:37) 第 7課 8月13日 イエスは幸福を願われた
第 7課 8月13日 イエスは幸福を願われた 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、 自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、 めん鳥が雛を羽の下に集めるように、 わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」 (マタイ 23:37) 第 7課 8月13日 イエスは幸福を願われた
第 7課 8月13日 イエスは幸福を願われた 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、 自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、 めん鳥が雛を羽の下に集めるように、 わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」 (マタイ 23:37) 第 7課 8月13日 イエスは幸福を願われた
イエス様は公生涯の間、どれ程まで真摯に人々のことを 気にかけておられたかを示されました。 イエス様は公生涯の間、どれ程まで真摯に人々のことを 気にかけておられたかを示されました。 イエス様が生きられたように、私達も生きなければなりません。 失われた者を愛する 無条件に愛する 常に愛する さらにさらに愛する 皆を愛する
失われた者を愛する(ニネべにおけるヨナ) 「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。ヨナにとって、このことは大いに不満であり、 彼は怒った。」 (ヨナ3:10-4:1) ヨナからイエス様まで800年間の歴史があります。二人の使命者は二つの都市(ニネべとエルサレム)を前にし説いていました。 両者を比較してみましょう。 ヨナとニネべ ニネべに行くことを望まなかった。 (ヨナ 1:3) ニネべ人たちの悔い改めに不服であった。 (ヨナ 1:4) 失われた者達を愛さず、彼らの滅びを望んだ。 (ヨナ 4:2-3) イエス様とエルサレム エルサレムに行くことを望んだ。 (ルカ 9:51) 悔い改めようとしない エルサレムを嘆いた。 (ルカ13:34; 19:41-44) 失われた者達を愛し、彼らを滅びから救うために死なれた。 (エペソ 5:2) 神の恵みにより、私たちも イエス様が 失われた者に示されたのと 同じ態度を 示せますように。
無条件に愛する(「とにかく」の原理) 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎むものに親切にしなさい。」 (ルカ 6:27) イエスは「触らざる者」であったらい病の者を愛し て触られた。すべてにも関わらず、彼を癒された。 イエスは3度拒んだにも関わらず、ペテロを愛され た。すべてにも関わらず彼を許された。 パウロは彼の権威を認めなかったが、コリントの 教会に仕えた。すべてにも関わらず、彼らを教え られた。 私達は誰かを愛し助けることを拒む言い訳を多く 持っているかもしれないが、すべてにも関わらず 私たちは召されている。 私達を憎むものでさえも、私たちが卑劣とみなす 者達でさえも、また私達に対して無関心な者達で あっても愛して助けられた。 そのように愛することで、私たちは実際に神の愛 を私たちのうちに表しているのです。
常に愛する (愛は必ず) 「愛は決して滅びない。」 (コリント信徒への手紙 I 13:8) イエス様は、私達が全てにまさって神を愛し、 自分のように隣人を愛すべきであると言われ ました。(マタイ 22:37-39) イエス様はこの地上でのご生涯で、常に愛を示さ れました。彼は神様の品性を反映され (ヨハネ第 1の手紙 4:8)、私達に愛の模範を示されました。 しかしながら、クリスチャンたちは歴史をとおして、 必ずしも常にその愛のうちに留まることが出来ま せんでした。実際、多くのクリスチャンは 自らの 兄弟、姉妹を殺すことになりました。 神の内に留まるもの達は彼の愛に永遠に 留まっていなければならない。 私たちの 生活のうちに見出されるキリストの愛ほど 人々をより力強く真理に導くものはない。
「すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見え ます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 さらにさらに愛する (二度目の接触) 「すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見え ます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 (マルコ 8:24) イエス様は盲人をお癒しになられましたが、彼は まだはっきりと見ることが出来ませんでした。 イエス様による2度目の接触ののち、全てが はっきりと見えるようになりました。 (マルコ 8:25) 教会にも部分的な盲目が存在しています。 あるクリスチャン達は、他の人々を「木のように」 しか 見ることができません。彼らは、他の人々を、 愛することのできない物として見ているために彼 らの必要を見ることが出来ません。 彼らは全てをより鮮明に見えるようになるために イエス様の2度目の接触を必要としています。 そうして彼らもイエス様のように他者を愛する ことが出来るようになるのです。
皆を愛する(他者中心の教会) 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を 自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」 (ピリピ 2:3-5) イエスは他のだれかを益するために計画を変え ることを気にされなかった。 (マルコ 5:21-43). あなたの教会は、福音に関心を持つ人が 訪ねて きたために、 喜んで予定された計画を変更する でしょうか。教会の外で、 困っている人の世話を しなければならないとしたらどうでしょうか。 私たちは自分の事ばかり考えることを避けるように 言われています。私たちは、たとえぎこちなく感じる ことがあっても、いつでも他人を喜んで 助けなけれ ばなりません。 もし私たちがイエス・キリストにあるのと同じ思いを私たちのうちにもつことが出来るのなら、 私たちはキリストのうように無条件で愛することが出来るのです。 私達の心地よさは構わず、他の人々の益を追求するのです。
「すべての教えにおいて、キリストは聴衆の心と 頭脳に、彼の偉大な義のもとにある原則を印象付けようとされました。神様の戒めを守ろうとするので あれば、神様と人々への愛が彼らの日々の生活に明らかにされることを、教えられました。彼は、人々の心に人類に対する彼の愛を浸み込ませようと されました。 それゆえ、その実が、神聖で美しい 品性の豊かな収穫を作りだす真理の種を蒔いた のです。その聖なる影響は時の続く限り遠くに届く ばかりではなく、その結果は 永遠に 感じられる ことでしょう。行動を聖別し、その存在するところは どこでも清くする影響を及ぼします。」 E.G.W. (Reflecting Christ, February 16)