ペンテコステ霊性 -霊性と自己省察- 2008年度後期.

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ペンテコステ霊性 -霊性と自己省察- 2008年度後期

この単元で問われていること 聖書の人間創造記録に記されている社会学的人間論の基本的な概念とは何か。 「我考える、故に我在り。」というデカルトの誤りを指摘せよ。 客我とは主我に対してどの様な自己なのか。 社会心理学的な自己省察の基準と、聖書的基準にはどの様な違いがあるか。 我々は果たしてキリストの心を心とすることができる能力があるのか。

人間 -その社会学的前提-  人が、ひとりでいるのは  良くない。(創2:18)

人間 -その聖書的前提-  神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創1:27)

人間 -その神学的可能性-  だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。                 (2コリ5:17)

「私」という存在 「私とは誰か?」 「私とは何か?」 哲学的視点 宗教的視点 社会学的視点 聖書的視点

「私」という存在 哲学的視点  「汝己を知れ」     (ソクラテス)               前470~前399 「我考える、故に我あり」      (デカルト)1596~1650 

「私」という存在 宗教的視点  「色即是空」(般若心経)    物資的・生理的に固定的な実体    がなく空であること (龍樹 150~250頃)

「私」という存在 社会学的視点(テキスト33ff) 「私」とは本質的に二重化された存在 「主我」と「客我」の二重性 「見る私」と「見られる私」の二重性 「主我」と「客我」の二重性 「私とは『私とは何か』と問うところのもの」 自分自身に関係を持つ私

「私」という存在 聖書的視点   「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。            (1テモ1:15)

鏡に見る自分(テキストp.35)

主 我 客 我 人との付き合い どちらの自分に支 配されているか? ・客観化された自分 ・他者の立場からみた自分 ・他者とコミュニケートできる自分 主 我 どちらの自分に支 配されているか? 客 我 ・自分が自分であると気づかずにいる自分 ・衝動的な自分 ・主観的に行動する自分 人との付き合い

「私」という存在 「客我」と「主我」 「客我」-自己の中に取り入れられた他者の視点 「主我」-客我のまなざしを浴びながら行動する自己

人 「客我」の認識 関係論的に到達する「客我」 「客我」の発見は個人技ではないこと 人との関係において認識できるもの 他者との関係の無い人間の存在は不可能

人 「客我」の認識 関係論的に到達する「客我」 「客我」の認識は社会的であること 私以外の存在にふれて初めて知ることが出来る私の存在 自己は自分の体内にあるのではなく、他者との間に存在

自分を知る難しさ 人がよく見えて自分が見えない自分   -生理的弱点-視界の限界   -心理的弱点-自己省察の困難                          (Taylor)

事実と真実 ・目に見えるものが全てだという思いこみ -部分を全体だと取り違える失敗 -限られたものしか見ていないという限界 の認識不足    -部分を全体だと取り違える失敗    -限られたものしか見ていないという限界  の認識不足    -見えていない部分を無視する失敗

事実と真実 目に見えるものを真実と断定する誤謬   -事実が必ずしも真実であるとは限らない   -事実の断片をつなぎ合わせても全体像と ならない

事実と真実      「猫は動物である。」(事実)      「犬も動物である。」(事実)      ∴ 「犬は猫である。」(真実?)                       (媒概念不周延の誤謬)

自己省察の必要   もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。 (ガラ6:3-4)

自己省察の必要 彼は本心に立ちかえって(口語訳) 彼は我に返って(新改訳・新共同訳) 自分を見失わないために(人との関係において) 主 我   -自己省察を怠ったパリサイ人の祈り   -客我を見失った滑稽さ   -見失った自分を取り戻した放蕩息子    ・自分を意識しない自分 ・衝動的な自分 ・主観的に行動する自分 主 我 彼は本心に立ちかえって(口語訳) 彼は我に返って(新改訳・新共同訳) ・自分を意識した自分 ・第三者の立場から見た自分 ・客観化された自分 客 我

自己省察の必要 神を知るために(神との関係において)    -神を知ることと自分を知ることの密接な関係    -霊的な位置づけを認識する必要 我々の知恵で、真理にかない、また堅実な知恵と見なされるべきものの殆ど全ては、二つの部分からなりたっている。神を認識することと、我々自身を認識することとである。ところが、この二つは多くのきずなによって互いに結びつけられているので、どちらが他に先立つか、どちらが一方を生み出すかを見分けることは容易ではない。 (カルヴァン『基督教綱要』第一章、1559年) 人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創3:8-9) 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)

『まず、自分を知ると いうことです。』 TBSスポーツニュースキャスター 「2000本安打を達成されましたが、これから したいと思うことは?」 『まず、自分を知ると  いうことです。』

自己省察(吟味)の基準 C.H.Cooley’s “Looking-Glass-Self” 基準を自分に置いて自分を見る “ I am what I think that I am.” 「自分で自分を判断した私」 疑似客我 虚 像

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」          (ルカ18:11-12)

「自分で自分を判断した私」 自己省察(吟味)の基準 誤った自己省察からでた祈り   ・“ I am what I think that I am.”    「自分で自分を判断した私」   ・自分を自己省察の軸足に    したパリサイ人               ・祈りの内容と態度の不整合   ・祈りではなく独り言

自己省察の基準  自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として(ejkei‘nov" ejstin dovkimo")受け入れられるのです。」(2コリ10:18)  あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、(spouvdason seauto;n dovkimon parasth‘sai tw’/ qew‘/)  (2テモ2:15)

自己省察の基準 C.H.Cooley’s “Looking-Glass-Self” 基準を他者に置いて見た自分 “ I am what you think that I am.” 「他人が見た自分」 虚 像

 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。(マタ13:55)

自己省察の基準 C.H.Cooley’s “Looking-Glass-Self” 基準を他者に置き自分を見る “ I am what I think you think that I am.” 「他人から見ると、こんな自分だろうと        判断する私」-比較の上に立った自分 虚 像 実 像

自己省察の基準  わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る」(2コリ10:12-13・新共同訳)

 「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。」    (1サム15:30)

実 像 「本心に立ちかえった」 YOU perceive that I am.” 「キリストの視点から自分を 振り返り、認知した私」 自己省察の聖書的基準 主キリストに基準を置いて見る自分 “ I am what I acknowledge  YOU perceive that I am.” 「キリストの視点から自分を         振り返り、認知した私」 「本心に立ちかえった」  自分 (ルカ15:17) 実 像

自己省察の聖書的基準 取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」             (ルカ18:13)

“ I am what I think YOUthink that I am.” 自己省察の聖書的基準 神が見た自分を見出した取税人    “ I am what I think YOUthink     that I am.”            ・「こんな罪人の私」を神            に差し出す祈り          ・神に受け入れられた祈り

キタノ・コーイチ 6,065,000人

私は神の特別誂え 神がデザインして下さったはずの私を再発見すること 神がデザインして下さった私が醜いはずはない。 神がデザインして下さった私がこんなに弱いはずはない。 神がデザインして下さった私は何かできるはずだ。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。    (ピリ4:13)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 イザヤ43:4 神のデザイン 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」  イザヤ43:4

使徒パウロの自己省察  これから話すことは、主によって話すのではなく(新改訳)・主の御心に従ってではなく(新共同訳)、愚か者としてする思い切った自慢話です。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。              (2コリ11:17-18)

使徒パウロの自己省察 私たちは、限度を越えて誇りはしません。 (2コリ10:13)  私たちは、限度を越えて誇りはしません。               (2コリ10:13)  誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。            (2コリ10:17-18)

使徒パウロの自己省察   彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。         (2コリ11:22-23)

パリサイ人の自己省察  「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」  (ルカ18:11-12)

パリサイ人と使徒パウロ 比較の相手 パリサイ人 使徒パウロ -取税人との比較 -「彼ら」との比較  -取税人との比較 使徒パウロ  -「彼ら」との比較    ・コリント教会を脅か   す「彼ら」 「にせ使徒・人を欺く働き人・キリストの使徒に変装している者」(2コリ11:13)

使徒パウロの自己省察 比較の内容 パリサイ人 - 取税人の行動と 自分の行為 使徒パウロ  - 取税人の行動と   自分の行為 使徒パウロ   -「彼ら」が宣べ伝   えている異端」に 対する福音の正  統性   -宣教の成果では なく、使徒職の正 統性

パリサイ人と使徒パウロ 比較の目的 パリサイ人 - 神からの祝福を受 けようとして 使徒パウロ - コリント教会を異端 から守ろうとして  - 神からの祝福を受   けようとして    「…だから」   「…にもかかわらず」 使徒パウロ  - コリント教会を異端 から守ろうとして

パリサイ人と使徒パウロ 比較の対象 パリサイ人 -神に向かって? 使徒パウロ - コリント教会共同 体に対して -己に向かって  -神に向かって?  -己に向かって 使徒パウロ  - コリント教会共同 体に対して あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。(2コリ12:19)

使徒パウロの自己省察 私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリ3:4-6)

使徒パウロの自己省察   しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。(ピリ3:7-8)

使徒パウロの自己省察  「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」  (ピリ3:8-9)

w|n prw'tov" eijmi ejgw. 使徒パウロの自己省察 使徒パウロ晩年の告白 (AD65) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。    (1テモ1:15) AD67/8 殉教 w|n prw'tov" eijmi ejgw.