メディア社会文化論 2010/5/21
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア(23)-論理の線形性③ 2.4 熱いメディアvs冷たいメディア(23)-論理の線形性③ マクルーハンは表音文字を視覚優位の典型として批判的に・・・しかし普通に考えれば・・・ →表意文字の方が視覚的、表音文字の方は聴覚的 マクルーハンの考え方・・・表意文字は色々な感覚の経験を籠めている
「熱狂的なナショナリストであった自国語愛好者たちが目的としていた課題のなかに、印刷の力を用いて言語のなかから触覚的性質を早急に抜き去る、ということがあった。いまこの点に注目したいと思う。十九世紀に至るまで英国人たちが彼等の間で語りあってきた英語に関する自慢話というものがあった。それは十六世紀以来英語が洗練純化されてきたというものであった。十六世紀の英語のなかには、触覚性と五感の相互の反響に資するような訛や方言が豊富に残っていた。だが一五七七年にはすでに、ホリンシャッドはサクソン時代からくらべて総体的に彼の時代の英語が洗練の度を加えてきている点を自慢気に語っているのである」(『グーテンベルグの銀河系』pp.364-365)
マクルーハンの文字文化、活字文化批判に・・・西欧を中心にして発達した、表音文字の文化への批判 ポストモダン的な西欧近代批判を先取りか 貨幣の蓄積や官僚組織への批判も
マクルーハンの貨幣批判とアルファベット批判との相同性 共に地域の枠を越える普遍的なメディアとして機能する 数字によって、働いた労働時間を表示し、異質な労働相互を「翻訳する」するメディアとして機能する(労働価値説を意識)
「こんにちでさえも、貨幣は農夫の労働を、床屋、医師、技師、鉛管工などの労働に翻訳するための言語である。貨幣が巨大な社会的メタファー、橋渡し、翻訳者であるとすれば--書かれることばと同じように--いかなる社会でも、交換を促進し、その相互依存の絆を緊張させる。それが政治組織に広大な空間的拡張と統制を許すところは、文字や暦がそうしたのと同じである。それは空間的にも時間的にも、離れたところの操作であると言える。高度な文字文化をもち、細分化のおこなわれた社会では、「時は金なり」だ。そして、貨幣は他の人びとの時間と努力の蓄積したものである」(p.136-137)。
「貨幣はその専門分化したアルファベット技術に随伴したものであり、グーテンベルクの機械的反覆の形態をさらに新たに強化することになったのであった。アルファベットが未開文化の複雑さを単純な視覚の表現に翻訳することでその多様性を中和してしまったように、兌換紙幣もまた十九世紀に倫理の価値を低下させてしまった」(p.141)
時計・・・表音文字の視覚性を前提とする 文字文化が普及→時間は区分、下位区分のできる囲われた絵画的な空間の性格を帯びる 「わたしのスケジュールは埋まっています」
表意文字から表音文字が世界を支配→印刷術が強まる→視覚優位の社会 視覚優位の社会・・・人間の感覚の包括性を失わせる→経験を断片化し、専門分化させる それぞれの分化した領域においては、普遍性を獲得・・・外へ外へと広がっていく(外展開・外爆発型)
外展開型 多様な解釈を容認しない。 多様な感覚の融合した文字・メディアであれば、多様な捉え方が可能であるのに。 印刷本の「連続性、画一性、反復性の原理」(p.181)ゆえに、一方向的なマス・コミュニケーション、マス・マーケティングに親和的になる
写本と印刷本の対比 写本・・・全体的な感覚がまだ存在→多様性 印刷本・・・抽象化され、視覚優位→一方向性 このような一方向性ゆえ、文字言語・・・発する者を支配者、権力者、スターに仕立てあげる
マクルーハンのイメージする「現代」・・・相互依存の時代 「現代」で必要とされるメディア・・・もう一度包括的な感覚を開くメディア 印刷のような断片化のメディア→電信のような包括的なマス・メディア 線形思考→非線形思考
線形の思考・・・一つの感覚優位であるから成立する 複数の感覚が働き、包括的に人間が世界にかかわるのなら、減ってくる。 ハイパーテキストに親和的なマクルーハンの発想 「WWWのビューワーとして知られている「モザイク(MOSAIC)」という言葉は、ノンリニアという意味でマクルーハンが使っていたものだ」(濱野保樹『大衆との決別』1995,p.137)
「WWWのビューワーとして知られている「モザイク(MOSAIC)」という言葉は、ノンリニアという意味でマクルーハンが使っていたものだ」(濱野保樹『大衆との決別』1995,p.137)
2.5 地球村 クリントン政権の副大統領ゴアの「情報スーパーハイウェイ・・・マクルーハンの)グローバル・ヴィレッジを実現するためのもの(濱野保樹『大衆との決別』(p.135) 「「グローバル・ヴィレッジ」とは、マクルーハンが提唱したヴィジョンで、電気メディアのネットワークが人間の神経系のように張り巡らされて、地球を一つの共同体にするというものである」(同頁)。
(『グーテンベルクの銀河系』p.53でのシャルダンからの引用)。 「あたかも自己拡張を行うかのように人間はおのがじし少しずつ地球上に自分の影響力の半径を拡げていき、その反面、地球は着実に収縮していった。・・・昨日の鉄道の発明、そして今日の自動車や航空機といった手段をとおして、各人の身体的影響のおよぶ範囲は以前は数マイルにかぎられていたものがいまでは何百哩どころかそれ以上にも及んでいるのである。それどころか、電磁波の発見によって代表される途方もない生物学上の事件のおかげで、各個人は海陸とわず、地球のいかなる地点にも(能動的に、そして受動的に)みずからを同時存在させることができるようになった」
マクルーハン自身による「地球村」の説明 「われわれの五感のこの外化こそ、ド・シャルダンが「精神圏」と呼ぶもの、もしくは世界全体のために機能する、いわば技術的頭脳を創造するものなのだ。巨大なアレクサンドリア図書館の建設にむかうかわりに、世界それ自体が、まさに初期の頃のSF本に描かれていたのとそっくりに、コンピューター、電子頭脳となったのである。」 『グーテンベルクの銀河系』p.53
印刷文化の否定と地球村 【過去】 印刷文化・・・人間を専門分化、断片化 断片において表音文字や貨幣が普遍的に流通 【これから】 感覚統合→全体的・包括的な人間・・・交通やコミュニケーションの発達によって狭くなった地球の中で共存
2.6マクルーハンからの発展:広義の(最広義の)メディアを突き詰めればどうなるか 物財、人の情報性の議論に すべての物、人の頭脳、人の体はメディアである 人の頭脳に模したコンピュータ、あるいはコンピュータネットワークも、そのような「人間拡張」の典型としてのメディア
「すべてのメディアがわれわれ自身を拡張したものであり、新しくものを変形する視力と意識とを提供するのに貢献する」(『メディア論』p.63)。
感覚器官・・・情報の受容体 神経という伝送路を伝って、脳にそれらの情報が伝えられる。 脳の中でも神経と神経伝達物質の受け渡しがある。 また我々の感覚器官の極く近くの延長として眼鏡や補聴器があるし、眼鏡や補聴器のさらなる出先機関として、われわれの代わりに外の世界を記録してくれるのが、テレビカメラとマイクロフォンであると考えることができる。 つまり脳から神経、感覚器官の延長としてマス・メディアを捉えるからこそ、「人間拡張の原理」(マクルーハンの『メディア論』の原題)といえる。
インターネット社会を予見した地球村 「個々の人々の自分の神経の延長として世界中に神経ネットワークを張り巡らし、世界中の人々と繋がっている」(「地球村」) 「コンピュータがインターネットを通じて世界中につながっている」(インターネット) 極めて近親性がある、上記2つのイメージ
メディア概念の拡張 拡張の問題点 メディアと情報を分けられない 物そのものと情報も分けられない 物の情報部分以外がメディアといわれるに過ぎない・・・ある物を見る人の視点で、あるいは見るという行為によって、そもそもそのある物は情報になるし、情報になるので
「見る」こと、顔を向ける(方向性、遠近法)ことが、物や人が「情報」となる始まり(端緒) 物財の情報性と、それ以外の情報財の情報性とを区別する視点→ 物財のメディアは、情報がなくてもそれ自体で意味をもつ 情報財のメディアは通常情報なくして意味がない
2.7 マクルーハン評価(批判等)の一例 稲葉三千男の批判(「マクルーハン 彼は正しいか間違っているか--“論より証拠”におぼれる教祖」『近代経営』12(12),29-131. (1967) (経済雑誌 ダイヤモンド社)) 「メディアの重層性」の議論と「冷たいメディア」「熱いメディア」の分類の矛盾を衝く
経歴は日本版ウィキペディア「稲葉三千男」写真はhttp://www. u-tokyo. ac. jp/gen03/kouhou/1253/6 経歴は日本版ウィキペディア「稲葉三千男」写真はhttp://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1253/6.html 稲葉 三千男(いなば みちお、1927年3月10日 - 2002年9月8日)は、日本の社会学者、ジャーナリズム研究者、政治家。研究者としては、東京大学新聞研究所(現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府の前身の一つ)で永く活躍し、東京大学定年退官後は、東京国際大学教授となった。1990年、革新系候補として東久留米市長に初当選、以降3期12年間市長を務めた
稲葉によるマクルーハン批判① 「メディアの重層性」の議論・・・関係概念、機能概念による把握 「冷たいメディア」「熱いメディア」の議論・・・それぞれを実体視 (後藤の補足(価値中立でないし、「冷たいメディア」=テレビ、「熱いメディア」=活字と対応メディアも実体視)) →矛盾
稲葉によるマクルーハン② 「メディアの重層性」の議論・・・プラトン、アリストテレス以来の二元論の延長(イデアと現象、形相と質料の議論)に “最終的には人間の脳に至る”(マクルーハン)・・・脳を実体視
稲葉のマクルーハン批判に対する授業担当者の意見① ①の批判について マクルーハンも(前回の授業で申し上げたように)、「冷たいメディア」「熱いメディア」を固定せずに、相対的な関係で捉えている(箇所が多い)。→その点で、稲葉の批判は妥当せず。 ただし、テレビ=冷たいメディア、活字本=熱いメディアという組み合わせは譲れないと考えているようだ。→この点、稲葉は妥当する。
稲葉のマクルーハン批判に対する授業担当者の意見② ②の批判について マクルーハンは二元論というより、小さな二項対立を組み合わせているに過ぎない。よって、プラトン以来の二元論の延長というより、そもそも二元論を要請する「情報vsメディア」という対立を崩したと評せる。→モダニズムを越えるポストモダンの走り。 →この点は稲葉の批判は的はずれ。
稲葉以外のマクルーハンへの批判 (1)技術決定論 →ただし共通感覚論との絡みも (2)テレビは未完成か? (3)マクルーハンの自己矛盾 (4)非線形的論理への親和性
稲葉以外のマクルーハンへの批判(1)-技術決定論 技術決定論だという批判 イニスの技術決定論→マクルーハンに影響 「五感の比率の変化の議論」・・・特に技術決定論的
マクルーハンの「五感の比率の変化の議論」を示すテキスト(文章) 「ある文化圏の内部から、もしくは外部からひとつの技術が導入され、その結果としてわれわれのもつ五感のうち特定の感覚だけがとくに強調され、優位を与えられる場合、五感がそれぞれに務める役割比率に変化が生じるのだが、そのときわれわれの感受性はもとのままではありえないのだ」(『グーテンベルクの銀河系』p.41))
技術決定論は叩くべきだ。しかし、・・・ 共通感覚論(中村雄二郎) マルクスの「鉱物商人」の喩え アランの『芸術の体系』(光文社古典新訳文庫) こういった感覚の延長としての情報機器 特定の感覚に基づく世界観
稲葉以外のマクルーハンへの批判(2)-テレビは完成度低い? 低精細度や完成度の低さをテレビの冷たいメディアであることの根拠とする・・・ しかし・・・ 現在のテレビ受像器は高品位テレビ 映画同様、DVDとして完成された作品となる。 しかも映画もテレビもNGシーンやメイキング映像等がDVDに付加価値をもたせる手段として使われる。
テレビの完成度は低い?② →この点では、稲葉の批判が妥当する。 マクルーハンの生きた時代のメディア状況を絶対視して、理論を作っている面も。
稲葉以外のマクルーハンへの批判(3)-マクルーハンの自己矛盾 当人は活字文化的な人 子どもに見せないようにテレビを地下室にしまうほど(服部桂『メディアの予言者-マクルーハン再発見』2001年、廣済堂出版社、p.112) カトリックの聖職者はラテン語を理解する文字文化エリートでありつつ、オーラル文化を擁護したのと同様の矛盾かも。
稲葉以外のマクルーハンへの批判(4)-非線形論理への親和性① 線形的な思考を否定 現在の思考をしばしば中断される情報環境を肯定する すると、我々の思考から論理性や物語性を奪うことになる
稲葉以外のマクルーハンへの批判(4)-非線形論理への親和性② もっともこういうような非線形志向への批判・反論としては以下のようなものがある。 我々は本読んでいる途中で食事をしたりスポーツしても、本は継続的に理解できるし ながら読書等をしても、読めるし、 授業も色々な科目を50分ずつ学んでも体系的に理解できる
2.8マクルーハンのメディア論からの示唆 全ての事象を相対化して関係性で捉える。 すると、中身と外側、メッセージとメディアに区分けできる。 メディアを実体としてでなく関係性で捉える。
3. メディアの定義と諸相 3.1 メディアの辞書的定義のいくつか 3. メディアの定義と諸相 3.1 メディアの辞書的定義のいくつか 3.1.1稲葉三千男の定義① 二通りの「メディア」 1)神と人の媒介 2)人と人との媒介 (『コミュニケーション事典』(1988、平凡社)の「マス・メディア」の項目)
3.1.1稲葉三千男の定義② 1)神と人の媒介(あるいは媒介に必要な媒介項)・・・媒介項は<みこ><霊媒><預言者>など・・・異質的な媒介をする媒介・・・媒介項を飛び越えて、直接媒介可能と考えるとミッテルに
3.1.1稲葉三千男の定義③ 2)人と人との媒介(あるいは媒介に必要な媒介項)・・・媒介項は送り手と受け手との中間にあるもの・・・同質的な媒介をする媒介・・・メディウムの媒介(物) 2-1)媒体材料 (例)音波に対する空気、文字に対する紙 2-2)媒体材料に情報が加えられたもの (例)新聞、雑誌、パンフレット、レコード、映画、ラジオ、テレビ
3.1.1稲葉三千男の定義④ 「媒体media(メディウムの複数形)とは,もともと<中間にあるもの>または<中間>を意味した.神と人との中間にいてなかだちをする<みこ><霊媒><預言者>なども含まれる」(稲葉 1988 498)・・・1)の方に相当するメディア この「神と人との中間」にいるものという部分を,「送り手と受け手の中間にあるもの」とよみかえて,稲葉は議論していく.
3.1.1稲葉三千男の定義⑤ 「対面集団face to face group内での会話や音楽会場での演奏などだと,空気が音波のメディウムで,手紙や遺言状だと紙が文字のメディウムである」.さらに印刷術の発明にともなって「新聞,雑誌,パンフレットなどの印刷物が」最初のマス・メディアとして登場する.つぎにレコードや映画が登場するが,これらはいずれも「物体として持ち運びができるという意味でパッケージ型である」.
3.1.1稲葉三千男の定義⑥ 他方ラジオやテレビはパッケージ型ではない.またフィルムや電波の情報を再生するための再生装置は「送り手と受け手の中間にあるもの」であるので,マス・メディアに含めうるという.さらに「マス・メディアがマス・コミュニケーションとまったく同義に使われることも少なくない」.