合同追慕礼拝 日本統一運動の礎となられた方達 ・桜井節雄第5代会長 ・石井光治第6代会長 ・梶栗玄太郎第12代会長 ・大山高誉様43双家庭 日本統一運動の礎となられた方達 ・久保木修己初代会長 ・桜井節雄第5代会長 ・石井光治第6代会長 ・梶栗玄太郎第12代会長 ・大山高誉様43双家庭 ・大山方美様43双家庭 ・松本道子役事 ・金成治子役事 ・林信子 役事
訓読 天一国経典「天聖経」 714ページ 第7篇 地上天国と霊界 第1章 人間の本然の生と死 第4節 天国とは 天国は神様の愛に満ち溢れた世界 3 「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17.21)とあるのですが、その天国とは、神様の愛が中心になっているところです。神様の愛が中心となって関係を結び、普遍的で妥当な環境圏を設定したところが天国です。
それでは、その圏に行ってとどまる人は、どのような人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのような人以外にはいくことができません。 神様の愛の本質と和合できる本質とはなんでしょうか。自分を中心にしていく人は価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてのものを与えようとした人だけが神様の愛の圏内で存続することができます。
久保木修己初代会長 略歴
久保木修己初代会長 略歴 ○昭和6 (1931)年2月3日、中国丹東市(旧満州安東市)で誕生されました。満州、北京で幼少時代を過ごし、敗戦によって13歳にして初めて日本の土を踏みました。中国大陸での民族を越えた数多くの友人との親交、初めて目にした「美しい日本列島」、それがアジア的視野で日本を愛し続けた故人の原点になりました。 ○慶応高校時代には野球に熱中し、二度にわたって甲子園に出場。慶応大学時代に荒れる日本の世情に心を痛め、立正佼成会に入会されました。立正佼成会では青年部長、会長秘書として活躍いたしました。 ○昭和37年、統一原理と劇的な出会いをなし、世界基督教統一神霊協会に入会、昭和39年に初代会長に就任されました。神を愛し世界を憂う会長を慕って多くの学生、青年達が統一教会に加わりました。そして昭和43年3月22日、日本で最初の祝福家庭として、哲子夫人と430双の祝福を受けておられます。
○国際共産主義が荒れ狂っていた昭和43年4月、このままでは国が滅びるとして国際勝共連合を創設、会長に就任されました。「共産主義は間違っている」とのスローガンのもと、全国各地の大学や街頭で勝共運動を指導され、岸信介元総理をはじめ各界有識者から「勝共の指導者」として高い評価を受けるに至りました。昭和44年には、アジアの平和と安全を憂い、アジアをはじめ世界各国を歴訪、朴正照韓国大統領、蒋介石中華民国総統、マルコス・フィリピン大統領らと会見されました。 ○昭和45年4月に、WACL(世界反共連盟)世界大会を東京・武道館で挙行し、アジアの平和と安全の確立に大きく寄与されました。共産勢力に守勢の日本にあって「勝共の久保木あり」との賞賛を受け、中華民国から名誉哲学博士号が授与されました。 ○さらには昭和46年6月16日、ローマ法王パウロ6世と会見され、世界平和への道を語りあわれました。
○翌昭和47年から48年にかけて、全国124カ所で「救国の予言」講演会を開催し、全国の有識者に深い感銘を与えました。その基盤の上でスパイ防止法制定運動、勝共国民運動が全国で展開されましたが、このような救国運動を常に前線に立って指導し続け、日本のみならずアジアの共産化を防いだ功績は筆舌に尽くしがたいものがあります。平成8年に世界平和連合会長に就任され、その生涯は、まさに「世界平和に身を捧げた生涯」といえるでしょう。 ○久保木修己名誉会長は1998年12月13日午前l時59分、享年67歳で昇華されました。真の御父母様はその昇華に際し「母奉士」という称号を贈られ、母の国日本のために献身されたその生涯を称えられました。
櫻井設雄第5代会長 略歴
1939年10月25日 東京都台東区 にて4人兄弟の長男として誕生、私立京華商業高等学校月謝免除の特等生主席で卒業 1958年4月 元三菱倉庫㈱東京支店勤務 1966年3月20日 若山千代子姉に紹介され統一教会入会 1969年5月1日 43双祝福を受ける(相対者:小河原節子) 1971年 春 十字軍第一団団長 1973年 東京第一地区長 本部伝道局長 1992年9月16日 本部事務局本部長 1993年~1995年 群馬教区長、本部会長秘書室室長、南東京教区長、千葉地区長 1995年6月7日~1996年6月25日 日本統一教会第5代会長 1996年~ トルコ国家メシア 1999年~ 南北米福地開発教会副会長 全国巡回師 2005年~ 療養 2011年11月20日午後10時48分 聖和 享年72歳
石井光治第6代会長 略歴
1936年11月25日 千葉県勝浦市に生まれる。文京高校卒業 1963年3月 統一原理の第1期特別修練会に立正佼成会信徒から選抜され参加(紹介者:久保木修己初代会長) 日本統一教会の創立 先導役として活躍、主に運営面を担当 1964年7月 東京都による宗教法人認可の際に尽力 1964年11月 渋谷区南平台の本部教会の開設に尽力 1968年 韓国より帰国し日本に心情のロウソクを初めて頂く 1969年5月1日 トミ子夫人と43双(12双)の祝福結婚 1975年1月 世界日報社社長 1998年3月 世界日報社会長 1981年 「おお仁川」米国映画の製作担当をする 1984年以後 文鮮明師のダンベリー収監の判決再審請求のために一貫して専念。 2009年6月15日 聖和 享年72歳
梶栗玄太郎第12代会長 略歴
1937年1月18日 福岡県に生まれる 1960年 芝浦工業大学土木工学科 卒業 1963年11月 統一教会入会 1965~1969年 本部総務部長 1969年5月1日 惠李子夫人と43双の祝福結婚 1969~1971年 世界平和統一連合事務総長 1971~1975年 国際勝共連合事務総長兼同理事長 1975~1982年4月 救国連盟理事長 1982~2009年 国際ハイウェイ建設事業団理事長 1983~1989年 世界日報社社長 1999~2002年 パラグァイ レダ開拓 2009年7月~2012年12月 日本統一教会第12代会長 2010年1月1日 国際勝共連合会長、世界平和連合会長就任 20012年12月26日 聖和 享年75歳
大山高誉・方美夫妻 略歴
43双 大山高誉氏 略歴 1905年2月23日 誕生 実名は曹又億萬 43双 大山高誉氏 略歴 1905年2月23日 誕生 実名は曹又億萬 韓国併合時代 単身来日した大山青年は、東京で夜学に学びながら、ビジネスの世界で成功した。 戦後 大山氏は、在日の中でも屈指の成功者で、総ヒノキの豪邸(東京都文京区)に住んでいた。大山倍達氏(極真館館長)が、若い頃、大山家に書生として居候しており、親戚に近い関係を続けたといわれている。大山氏 御自身も、八卦道という武道をし、当時としては大男だった。 1965年61歳ごろ クリスチャンの大山氏は、妹の松本道子さんの入教には最初反対していたが、娘さんの君子さんから伝道された。 君子さん 久保木会長夫妻と同じ430双の時に、韓国の柳光烈初代文化部長と祝福をうけ、ルーマニアの分奉王である。 息子たち 極真空手を米国に広めるために渡米した。大山茂師範(次男)と 大山泰彦(三男)師範は40日修練会に参加し、米国UCを応援した。米国極真会館館長になった次男の茂氏は、歴史的なNYでのマディスン大会で真のお父様のボデーガードを努め、イーストガーデンのSPに対して空手の指南役をするようになった。 2005年8月12日 101歳の高齢で聖和される
大山(佐藤)方美さん 略歴 1962年頃 広島大学文理学部の学生で桜井節子さんに伝道される 開拓伝道 奈良市 大山(佐藤)方美さん 略歴 1962年頃 広島大学文理学部の学生で桜井節子さんに伝道される 開拓伝道 奈良市 本部文化部 「成約週報」等出版の聖業に励む 1971年12月27日 聖和 享年45歳
大山高誉氏へ真のお父様のみ言 2004年ころコディアック・ノースガーデンにて日本からの食口たちを交えてのミーティングの最中、真のお父様は「あんたたちは大山さんを知っているの?また大山君子を知っているの?」と尋ねられた。 さらに、二年後(2006年ころ)真のご父母様はヨーロッパ各国を平和巡回講演中であった。ルーマニアにも立ち寄られ、ルーマニアの分捧王の大山君子夫人に、「(あのとき)なぜすぐ帰ってしまったんだね」、「大山は何歳で逝ったの? 101歳か?それは大したもんだ、君子、お前も長生きするよ」などと親しく接してくださった。 (伊藤武氏証し)
松本道子役事 略歴
1960年4月 入教 紹介者 崔奉春宣教師 1960年8月16日 増田勝氏と共UC初の40日開拓伝道 1967年6月17日 日本統一教会本部の三役事として松本道子さん、金成治子さん、林信子さんが決定。み言 「三人の役事は一つの心となって日本の中心である久保木会長を助け、そのために天に祈り、何事においても四位基台を造成して相談しながら御旨に従事しなければならない」 1968年5月11日 宝塚に「重生祈祷院」開設。山路みち子さん、熱海房子さん、佐藤初子さんら重生祈祷院開設の際に、松本道子役事が10日間の断食精誠祈祷を捧げる 1998年12月8日 特別天地祝福式(大母様)第1次独身祝福者霊・肉界祝福式を受ける(千葉ポートアリーナ) 2001年11月12日 真のお母様が本部教会を訪問され、松本道子さんを慰労される 2003年10月25日9時45分 入院先の一心病院で87歳で聖和 日本の女性の初穂として開拓伝道などで大きな業績を残す
西川勝宣教師による証し 「信仰は火と燃えて松本ママ奮戦記」発刊の祝辞(1982年2月) 今より二十数年前、私は天父の心情に涙し、天宙復帰の情熱に燃え日本に宣教に来たものの、我に自由もなく、人の子の枕する所もない。外見は哀れなこの青年宣教師に彼女は心身共に犠牲と協力を惜しまず、今日の日本統一教会の創立者の一人として永遠に天宙史に輝く人である。 信じられない時に信じ、天命には喜んで殉じ、ある物すべてを捧げ、できない困難、十字架の荊の道を血と汗と涙で歩み続けた人である。時には心身共に疲れ切っても、天父の愛を知るとまた立ち上がり、また倒れても天宙復帰の使命を思うと働きだす道子さんである。今日病身であり自分をかまうのも大変なのに、千里の道を行き、み言を獅子王のごとくに語り続ける天の烈女である。私は世界の巡回師として各国を訪れるが、彼女のような天の烈女をみたことがない。
私は彼女の師であり真理は教えるが、信仰態度は彼女に常に無言で教えられる。松本さんにはあまりにも神と人を愛する心と、生涯に神と人類に尽くした功績が多いので、この人を批判すれば私が恥ずかしくなる人である。 彼女は自分の師を尊敬することは世の誰よりも勝り、真理を喜ぶことは有頂天のごとく、熱心なる信仰は狂信者のごとく、働くことは牛のごとくであった。彼女は教会に入会以来私の命令または意見に逆うことが一度もなく、何事を思い行っても神を中心にして信仰的であった。一度やり出したことは中途に挫折することがなかった。「成せば成る」の信念を持ち続け、いつも成就して勝利者であった。ゆえに天国は彼女のものであり、地では永遠に彼女の業績は天の明星のごとく輝くであろう。
金成治子役事 略歴 天意献身 真のお父様からのみ言
金成治子役事 略歴 1915年11月15日 台湾、台北市に生まれる 金成治子役事 略歴 1915年11月15日 台湾、台北市に生まれる 1963年9月2日 救世軍、カトリック教会、立正佼成会などの宗教的環境を経て、統一教会に入教する 1967年6月17日 松本道子役事、林信子役事と共に日本の三役事を務める 1973年 渡米する 1976年6月1日 再渡米する 真の父母様のそばで働くとともに、 米国教会の青年会員の信仰指導を 精力的に務める。 その後、胃がんの治療のため帰国 1985年9月12日 聖和 享年69歳
金成治子役事の霊界通信 ある時、尾瀬研修所の戸をたたく音がしました。すると、金成治子役事(1985年昇華)が霊的に現れたのです。そして、金成役事は、「戸丸さん、私は靴をわすれてきて歩けません。天国に行けないのです」と訴えていました。わたしが「どこに忘れてきたのですか」と尋ねると、「ニューヨークです。真のご父母様にいただいた一番大切なものです」と言われるのです。 すぐに、アメリカに電話をして、その靴を送ってもらいました。そして靴を金成役事の棺に入れてあげたのです。すると、今度は、「胸が痛い。そんなところにおいたら靴を履けない」と言うのです。私は、「これは、悪かった」と思って、靴を足の方に入れ直してあげました。すると金成役事がとても喜んでいるのがわかりました。 (戸丸英男氏の証しより)
代々木聖地にて
林信子役事 略歴
林信子役事 略歴 1911年12月29日 誕生 1964年3月 入教 紹介者:長谷川(竹内)みつえ姉 林信子役事 略歴 1911年12月29日 誕生 1964年3月 入教 紹介者:長谷川(竹内)みつえ姉 1965年頃 「広島教会には当時、神山威さん、岩井裕子さん、今井繁行さん、そして私などの献身的メンバーと、地元の青年たちや壮年婦人部の人たちが共に活動していました。 特に婦人部の林信子役事は、若い私たちを支えて、経済的にもいろいろと援助してくれました。真のお父様が来日された時も、ご一行をお迎えするために、大いに張り切っていました。」 (ロニヨン・千鶴子証言集より) 1967年6月17日 松本道子役事、金成治子役事と共に日本の三役事を務める 1975年 既成独身祝福受ける。 1978年6月27日 聖和 享年66歳 婦人部長としても長年活躍される