第4回(くらい)配付資料(4-3ヘレニズムと古代) 図書館とメディアの歴史 担当:後藤嘉宏 第4回(くらい)配付資料(4-3ヘレニズムと古代) 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ヘレニズム文化の問題 アレクサンドリアはエジプトの都市。アレクサンドロス大王のエジプト遠征で征服し、都市建設が決まった。 アレクサンドロス大王の没後、重臣であったプトレマイオス1世は、大王の遺体をエジプトに運び、エジプトの初代ファラオとなる。 このプトレマイオス1世の建設したのが、アレクサンドリア図書館。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドロス大王(BC356-323在位BC336-323)のウィキペディア情報から1/2 紀元前342年、父王に招かれたアリストテレスが「家庭教師」となる。都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。こうして、王と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、のちに大王を支える将軍となった。 マケドニア王→ギリシアポリス制圧→ペルシア、エジプト制圧→インド遠征に失敗→バビロンで高熱で死す 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドロス大王(BC356-323在位BC336-323)のウィキペディア情報から2/2 「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し死去してしまった。 ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
プトレマイオス1世(BC367-BC282在位BC305 -BC282)のウィキペディア情報から1/3 エジプトのヘレニズム国家プトレマイオス朝の初代ファラオである。アレクサンドロス3世(大王)に仕え、アレクサンドロスの死後はディアドコイの一人としてエジプトに拠った プトレマイオスは国王フィリッポス2世が息子アレクサンドロスのために哲学者アリストテレスを招いて作ったミエザの学園に学んだ「学友」でもあった。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
プトレマイオス1世(BC367-BC282在位BC305 -BC282)のウィキペディア情報から2/3 アレクサンドロスと父フィリッポス2世が対立した際に、アレクサンドロスと親しかったプトレマイオスはラオメドン、ネアルコス等と共に追放された。紀元前336年にフィリッポス2世が死去すると、プトレマイオス達は呼び戻され、アレクサンドロスから厚遇を受けた。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
プトレマイオス1世(BC367-BC282在位BC305 -BC282)のウィキペディア情報から3/3 ペルディッカスがプトレマイオスを討伐せんとエジプトに遠征してくると、プトレマイオスはこれを迎え撃ち、ナイル川の戦いでペルディッカスに対し勝利を得て、その地位を確固なものとした。彼は内政において統治体制を確立し、外征においては領土を東地中海まで拡張するなどして、古代エジプトの繁栄を取り戻した。また、首都アレクサンドリアに、王立研究所(ムセイオン)とそれに併設したアレクサンドリア図書館を建設した。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドロス大王と プトレマイオス1世 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cb/AlexanderTheGreat_Bust.jpgとhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/Ptolemy_I_Soter_Louvre_Ma849.jpg 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレキサンドリア図書館 についてのウィキペディア情報1/3 紀元前300年頃、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。 世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われている。図書館には多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵し、その蔵書はおよそ70万巻にものぼったとされる。アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関としても知られる。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレキサンドリア図書館 についてのウィキペディア情報2/3 プトレマイオス朝当時のアレクサンドリアに入港した船は、積荷に含まれる書物をすべて一旦没収された上で所蔵する価値があるかどうか精査されたという。所蔵が決定された場合には、写本を作成して原本の代わりに持ち主に戻し、同時に補償金が支払われたとされる。このやり方で集められた書物が船舶版と呼ばれている。 同様にして他の図書館の蔵書を強引に入手したという逸話もある。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレキサンドリア図書館 についてのウィキペディア情報3/3 図書館は写字生を多数抱えており、組織的に写本を作っていた。また当時の写本は、近代的な製紙技術と印刷技術がなかったため、ナイル川のデルタで栽培されていたパピルスを原料としたパピルス紙を利用していた。 →図書館は1)学術研究機関であり、2)写本工場、いまでいう出版印刷業であった。多分に修道院にこの側面は受け継がれ、大学に発展したといえる。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドリア図書館のウィキペディア情報への補足1/4 プトレマイオス1世の創設とあるが、マソン&サルヴァン『図書館』(クセジュ文庫)では、プトレマイオス2世とあるし(16-20)、寺田光孝編著『図書及び図書館史』(樹村房)は、プトレマイオス1世の遺志を継いでプトレマイオス2世が作ったとしている(14)。またウィキペディア英語版では、プトレマイオス1世が創建したという説と2世が創建したという説、双方があると紹介してある。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドリア図書館のウィキペディア情報への補足2/4 「資料収集には、既存の文献を集めるだけでなく、写本づくりも含まれていた。さらに写本作りには翻訳作業も伴っていた」(寺田ほか15)。聖書などの翻訳もなされたという。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドリア図書館のウィキペディア情報への補足3/4 「初代の館長から第6代の館長まで、著名な学者が図書館の管理をしていた。・・・流布する異本が数多くあった古代にあっては、複数のテキストを校合し、正確なテキストを見きわめ、定本を作り上げる作業が必須であり、ここでその作業がなされていた。西洋の文献学(philology)はこの図書館を舞台にして完成したといえる」(寺田ほか16-17)。特に文献批判学は、ホメロスに対してなされた(フォルシュティウスほか『図書館史要説』日外,6)。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
補足の補足 ホメロスの公式版はかつて作られたことがなかった。「図書館が蔵書を蓄積しつつあった時代までは、種種の写本が存在し、それらの写本にみられるテキストには種種の相違点が含まれていた。・・・だから図書館はそれらを・・・来歴による方法で区別した。・・・(このようにしてホメロスの)標準的テキストの確立」がなされた(カッソン『図書館の誕生』55)。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドリア図書館のウィキペディア情報への補足4/4 「プトレマイオス王朝はアレクサンドリアに学者たちを招聘し、王家が費用を負担して、膨大な蔵書のなかで生活させ、仕事ができるように仕向けて、図書館を王家の管理下にあるシンクタンクのようなものにした」(バトルズ『図書館の興亡』草思社、40) 「ペルガモンの図書館の発展を阻止するために、市の支配者たちはパピルスの輸出を禁止した。だが・・・逆効果で、ペルガモン人に羊皮紙の発明を促した」。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アリストテレス哲学とヨーロッパについての概要(1/2) アリストテレス文献のヨーロッパでの滅亡(実際の散逸とギリシア語を読めなくなることの、二重の意味で)と復権 中世前期のヨーロッパの哲学・・・キリスト教とそれと同調的なプラトン哲学、ネオプラトン主義が支配・・・地上より彼岸が重視される・・・科学的合理性より宗教性 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アリストテレス哲学とヨーロッパについての概要(2/2) アラブ世界がアリストテレスを翻訳 アラブ世界とヨーロッパの交渉(レコンキスタ運動等) 中世後期にアリストテレス哲学がヨーロッパに普及 現世的、自然科学的な発想の基礎付けに キリスト教神学と科学的合理性との折り合いを付けるべきスコラ哲学の発展 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アリストテレスとアレクサンドロス大王一族との深い繋がり アリストテレスの父はアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)の祖父のマケドニア王アミュンタス3世の侍医(ルーベンシュタイン『中世の覚醒』53)。アミュンタス3世の息子フィリッポス2世と同年代のアリストテレスは子どもの頃から親しく、息子の家庭教師を頼まれ(R54)、その息子が長じて大王となった。またアレクサンドリア図書館を作った未来のプトレマイオス1世も、未来の大王と共に学んだ(ウィキペディア「プトレマイオス1世」)。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドロスとアリストテレスの画像 http://www.sciencephoto.com/image/222937/530wm/H4000211-Alexander_of_Macedon_and_Aristotle-SPL.jpgによる19世紀の「図解、賢者への道」というフランス語の本での「アレクサンドロスを教えるアリストテレス」の図。本当はプトレマイオス1世その他の「ご学友」もいたはず。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドロスとアリストテレス ルーベンスタインによると、アリストテレスの普遍主義的な考え方と、ギリシアを統一し、統一ギリシアでペルシアに立ち向かおうというアレクサンドロス大王の考え方は一致していたと推測する(R65)。 しかし大王が急死すると、アテネの民衆は大王派と目されるアリストテレスを涜神の廉で死刑にしようとし、アリストテレスは母の故郷のカルキスに逃げ、一年後に胃病でなくなるが、自殺説もある(R71)。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドリア図書館と その破壊-ヘレニズム文化の焼失 アレクサンドリア図書館には写本をいくつも集めているので、言語学者がテキストの校訂をしうる→前原型本作り→販売用写本→流布 48年、ローマ(カエサル軍)がムーセイオンを焼く〔G20〕。 ウィキペディアによると、「しかし最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による継続的な攻撃である。5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとにヒュパティアの虐殺(415年)などの蛮行を繰り返し、大図書館やムセイオンをも破壊した。このようなキリスト教の蛮行によりヘレニズム学術の貴重な成果の大半が失われた」とのこと。この間の事情を側面からみる。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ヒュパティアについて(ウィキペディア情報)(1/3) ヒュパティア(370年?- 415年3月)は、古代エジプトの著名な女性の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者である。キリスト教徒により異教徒として虐殺された。 テオン(著名な数学者と哲学者であった)の娘であり、ヒュパティアは400年頃アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行ったという。そして、彼女の希に見る知的な才能と雄弁さや謙虚さと美しさは、多数の生徒を魅了した。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ヒュパティアの 肖像(とはいえ想像図) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/hypatia.html及びhttp://pedia.mapion.co.jp/wiki/img_wp/ja/f/f8/250px-Hypatia.jpg 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ヒュパティアについて(2/3) 新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。 四旬節のある日、総司教キュリロスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキ 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ヒュパティアについて(3/3) の貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した。 の貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した。 ヒュパティアの無惨な死は多くの学者たちが亡命してしまうきっかけともなり、中長期的には古代の学問の中心地であったアレクサンドリアの凋落を招く一因になる。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ルーベンスタインによる ヒュパティア虐殺の説明1/4 「彼女自身は異教徒だったが、アレクサンドリアというキリスト教が優勢な土地ゆえ、弟子と友人の多くはキリスト教徒だった。教え子の中には、のちに司教になった者が少なくとも二人含まれていた。教会の指導者たち(その多くはやはり新プラトン主義者だった)との関係は、きわめて友好的だった」(R116) それが虐殺されるに至った背景は、1世紀前の司祭アリウス(250-336)(イエスは神の被造物とする)とアレクサンドリア司教アタナシウス(295-373)(三位一体論の源流)との宗教論争にあるという。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ルーベンスタインによる ヒュパティア虐殺の説明2/4 歴代のローマ皇帝が、アリウス派、アタナシウス派(ニカイア派)のいずれかに与する。 アリウス派・・・拠点アンティオキア アタナシウス派・・・アレクサンドリア ・・・相互の都市も覇権を争う 381年コンスタンティノープル公会議・・・アタナシウス派(ニカイア派)を正統に →異端派やユダヤ教徒その他異教徒への暴力的な攻撃が始まる 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アリウス、アナタシウスの画像 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9よりアリウス、http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Sainta15.jpgよりアナタシウス 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ルーベンスタインによる ヒュパティア虐殺の説明3/4 「地中海世界は半ば無意識のうちに「キリスト教が単に優勢である社会」から「キリスト教がすべてを支配する社会」に向かって、一歩を踏み出していた」(R118)。 アレクサンドリアでは司教テオフィロスに煽られた民衆が熱狂して、神殿やアレクサンドリア図書館の分室を焼き払った(R119)(391年)。 異教の寺院の焼き討ちが民衆の娯楽に。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ルーベンスタインによる ヒュパティア虐殺の説明4/4 415年、司教キュリロスがキリスト教徒を扇動し、ユダヤ人の大量虐殺。 ビザンツ帝国のアレクサンドリア長官オレステスが司教を叱りにいったさい、長官に投石し怪我させた修道士を死罪に。 ヒュパティアは、この長官オレステスと親しかったので、キリスト教の邪魔をしているという噂が立つ。 ヒュパティアの虐殺へ。 この一環としてアレクサンドリア図書館は徐々に焼かれていった。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
キュリオスの画像 http://en.wikipedia.org/wiki/File:POPE_kyrellos.JPGよりキュリオス像 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
アレクサンドリア図書館の画像 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Ancientlibraryalex.jpgよりアレクサンドリア図書館の内部図・想像図 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
シャルティエらによるアレクサンドリア図書館の評価 シャルティエ&カヴァッロのいうにはアレクサンドリア図書館は文献学を発展させ、書物以前の口承時代のものも書物にしてしまったという(C16)。 普遍的かつ合理的な図書館・・・巻子本のサイズや一巻に収める作品は原則1作品といった、標準化が行われる(C16-17)。 基本的に王朝の壮麗さを示すための図書館。少数の学者・文人の作業所(C17) 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
分かち書きの問題1/3 なお、オングにいわせると初期の写本では、単語と単語との間に空白がなく、文字の分かち書きをしていないという(O,131)。 オングは時期を明示していないが、高宮利行(慶大名誉教授、某Yゼミナール創設者の御曹司)は、10世紀後半になってから、西欧でも写本の分かち書きをするようになったというhttp://www.humi.keio.ac.jp/workshop/2001/lecture/010528/010528_takamiya.html 。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
分かち書きの問題2/3 高宮の続き。「なぜ分かち書きが普及するのにそんなに時間がかかったのか。この疑問に対してシーンガーは、古代の読書が音読に固執していたこと、古代ではたやすく続むとか速く読むといった、現代で利点と考えている面に関心を払わなかったことを、理由に挙げている」。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
分かち書きの問題3/3 シャルティエらにいわせると、音読が行われたのは、連続記法の意味を読者に分からせるためだという説もあるという(C12)。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ヘレニズム~中世 書物の形態変容 キリスト教徒 Codex(冊子体の本)を作る・・・一冊で聖書全部が入る。 Volumenあるいはscroll(巻子本)→codex(冊子本) 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
巻子本の写真 http://laurenericksondotcom.files.wordpress.com/2011/09/scroll3.jpgより巻子本、ローマ初期 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
冊子本の写真1/2 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/CodeAlexandrinusFol65vExplLuke.jpgよりアレクサンドリア写本のcodex(5世紀のギリシア語聖書写本、大英図書館蔵) 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
冊子本の写真2/2 http://www.lib.umich.edu/writing-graeco-roman-egypt/codex.htmlより、2世紀エジプトのパピルスのcodex(聖パウロの手紙) 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
『聖書』が他に先駆けて冊子本になった事情1/3 『聖書』のコデックスについてhttp://www.pauline.or.jp/imamichi/imamichi02.phpで補足。 パピルスは素材が手軽に入手できるので 比較的に安く便利でしたが、もろく湿気に弱いため、エジプトのような乾燥地でなければ長期保存は困難でした。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
『聖書』が他に先駆けて冊子本になった事情2/3 パピルスの巻物はもろいだけでなく いつも両手に持って開いてゆかなければならず、朗読者が必要なところを開くにも不便でしたので、2世紀には綴じ本も出はじめます。それは、パピルスを2つに折って中綴じにしたものです。教会は、早くからこのほうが巻物より便利であると気づきました。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
『聖書』が他に先駆けて冊子本になった事情3/3 綴じ本の場合には、四福音書やパウロの手紙をそれぞれ1冊にまとめることもでき、紙の両面が使えるので経済的ですし、必要な箇所も開きやすいからです。とはいえ、パピルスの裏は 繊維が縦に入っているため、文字をきれいに書きにくいという難点がありました 4世紀になると、獣皮紙の保存のよさ、綴じ本にしても裏表ともスムーズに使え、先に書かれたものを削り落として再利用することもできる、などの利点が高く評価され、皮革紙が主流となりました。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ウィキペディアでの冊子本の記述1/3 コデックスについてウィキペディアの記述より 記録上確認できる範囲で著作の配布・提供にコデックスがはじめて用いられたのは、1世紀の後半のことであった。この時代、書物や記録物の形態としてもっともよく用いられていたのは巻物であり、4世紀まで巻物が書物の主流であった。ガイウス・ユリウス・カエサルはガリアへの遠征時、文書を巻いておくよりも蛇腹状にまとめたほうが素早く参照できることに気づいた。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ウィキペディアでの冊子本の記述2/3 4世紀から8世紀のカロリング朝の時代にかけて多くの巻物がコデックスに書き換えられていったが、この間にコデックスにされなかった書物は失われてしまった。コデックスには巻物にはない多くの利点があった。平面的で場所をとらない、特定の箇所を開いて読みやすい、表にも裏に書ける、表紙をつけて中身を守ることができる、持ち運びが楽などということである。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
ウィキペディアでの冊子本の記述3/3 コデックスにはもうひとつ、書庫などで保管する際に背にあたる部分にタイトルをつけて探しやすくできるという利点があった。書名をわざわざつけるという発想は中世にいたるまで一般化しなかったので、ほとんどの古代の書物は冒頭の数語をとって書名としていた。 初期のコデックスはパピルスをまとめたものだったが、パピルスは破れやすく、エジプトでしか作られなかったので、徐々に羊皮紙にとって変わられた。羊皮紙はパピルスより高価だったが、頑丈だったことで好まれた。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
コーデックス化されない本は失われた・・・という箇所の補足1/2 存在するテキストの選択・・・選集作り。Corpus(文集)に。これに収められたテキストのみが原型本に。原型本に基づき写本が各地に。 ギリシア語文献・・・2世紀半ば~後半 ラテン語文献・・・4世紀末~5世紀初頭 この「選書」の時期と、巻子本→冊子本の時期が重なる(G21) 2017/3/1 図書館とメディアの歴史
コーデックス化されない本は失われた・・・という箇所の補足2/2 「パピルスに代わって、羊皮紙の冊子が一般化したのは、その前にも例がないではないが、だいたい四世紀のことである。それはちょうど時を同じくして、四、五世紀の狂信と戦争の犠牲となって、古代の大図書館が消滅していったころのことであった」(マソンほか『図書館』19)。 2017/3/1 図書館とメディアの歴史