アジアの歴史第12回 「四小龍」「三小虎」と鄧小平: 政治至上の時代から経済至上の時代へ ーアジアの変貌と中国の「改革開放」ー 1
「東アジアの奇跡」 世界銀行は1993年に『東アジアの奇跡--経済成長と公共政策』と題したポリシー・リサーチ・レポートを発表した。この本は1965年から1990年にかけて東アジアが世界のどの地域よりも急速に成長したこと、この急成長は、香港、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、シンガポール、タイ、台湾といった8つの国・地域における、奇跡的な経済成長によりもたらされたことを分析し、これら8つの高度成長を示す経済地域をHPAEs(High Performing Asian Economies)と名付けた。NICs といい、NIEsといい、世界銀行あたりのエコノミストがつくり出した新語だが、こんどはHPAEsという新語が登場したわけである。これら8つの地域は、日本プラス四小龍(韓国・台湾・香港・シンガポール)プラス三小虎(タイ・マレーシア,インドネシア) にグループ分けできる。 60年代後半から、 70年代、 80年代にかけて、 日本の高度成長が四小龍に波及し、 さらにはアセアンの三匹の虎に波及したものとみてよい。ーー矢吹晋「東アジアの奇跡と中国」より 2
韓国の経済発展 韓国経済は朝鮮戦争による内戦でインフラが壊滅したことで大きく立ち後れていたが、所謂漢江の奇跡と呼ばれる経済発展以降成長を続け、2008年のGDPで世界15位であった。主要な産業はIT、造船、鉄鋼、自動車など。(中略)07年の貿易収支黒字の推定値である150億ドルの1.4倍に達している。新興工業経済地域(NIEs)の一つに数えられた時期を経て、1996年にアジアで2番目のOECD(経済協力開発機構)加盟国になった。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 3
台湾の経済発展 台湾の経済は国家資本と外国投資により形成された資本主義経済システムを採用している。しかし政府の経済に対する役割は縮小傾向にあり、多くの国有銀行や国有企業が漸次民営化され、過去30年間の経済成長率は8%に達し、輸出工業による外貨獲得により台湾は世界第3位の外貨準備高を達成した。 国内総生産 (GDP)に占める農業の比重は減少傾向にあり、…また伝統的な労働集約型の工業はハイテク産業に転換されている。台湾の電子工業は世界経済に大きな比重を占め、多くのコンピューター部品が台湾で生産されその影響力は極めて大きい。貿易相手国としてはアメリカと日本が長期にわたり大きな比重を占めてきたが、近年は中国との貿易額が飛躍的に増大し、そのほかEUや東南アジアへ転換を図りタイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ベトナムへの国外投資も盛んに行われている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 4
香港の経済発展 第二次世界大戦が終わると中国本土では国共内戦が勃発し、…戦乱や共産化を避けるため、香港には中国大陸本土からの移民が押し寄せた。その中には、安い労働力となる難民のほか、上海など戦前の中国を支えた大都市の資本家も含まれていた。また、ちょうど上海の繊維産業は設備更新期にあたり、欧米などから新しい製造設備を輸入するところであった。こうした事情が重なり、戦後は繊維産業や(後に発達する)プラスティック加工などの軽工業が発展した。香港経済は中継貿易から加工貿易へとシフトしたのである。 1970年代からは、香港政庁が新界の住宅団地開発や地下鉄建設などインフラ建設を開始し、香港経済は急速な発展を遂げる。。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 5
シンガポールの「開発独裁」 独立後に首相に就任したリー・クアンユーは、天然資源に恵まれないものの、東南アジアにおける通商の中心地に位置するシンガポールを発展させる唯一の手段として、一党独裁体制下での通商都市国家の道を選択する。 いわゆる開発独裁体制の下で、職住近接型のジュロン工業団地の整備や、HDBと呼ばれる公営住宅の普及を急速に進め、外資系企業の積極的な誘致、ハブ空港整備(チャンギ空港)、関税廃止、教育水準の向上、マナー管理(チューインガム禁止、落書きにはムチ打ち刑、公道上での泥酔禁止、麻薬所持や拳銃の発射は死刑)などの開発政策を進め、その結果、アジアでも有数の経済発展を成し遂げ、2007年に一人当たりGDP(為替レート)は3.5万ドルに達し、日本を追い越した。東南アジア諸国連合(ASEAN)には結成時に加盟、新興工業経済地域(NIES)の一角でもある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 6
文化大革命終了後の中国の歩み 1978年12月 中国共産党第十一期三中全会、鄧小平主導の改革開放政策路線を採択 1979年1月 米中国交回復 1978年12月 中国共産党第十一期三中全会、鄧小平主導の改革開放政策路線を採択 1979年1月 米中国交回復 1980年5月 経済特別区の設置決定(深セン・珠海・汕頭・廈門・海南省を指定) 1982年 共産党十二全大会,工農業総生産額四倍増提起。胡耀邦総書記就任。 1984年5月 「沿海開放都市」の設置決定(大連・青島・上海など14都市を指定)。 1985年 人民公社の政社分離,郷政府樹立が終了。 1986年8月 瀋陽市に初の証券取引所開設 1987年11月 中国共産党13全大会開催,趙紫陽を総書記として選出 1989年5-6月 北京で100万人の街頭デモ,「天安門事件」 1989年11月 鄧小平軍事委員会主席引退,江沢民が後任 1990年9月 北京で第11回アジア競技大会開幕 1990年12月 13期7中会,第8次五カ年構想策定提案を採択,改革開放政策を再確認。 7
「不倒翁」と呼ばれた異色の政治家 鄧小平(とう しょうへい、Deng xiao ping)1904-97、中国の政治家。四川省広安県の人。1920年フランスへ留学,24年在仏中に中国共産党に入党,26年モスクワに学び,27年帰国。34年に長征に参加,45年党中央委員,52年以降,政務院副総理,党総書記など要職を歴任。文化大革命で劉少奇に次ぐ党内実権派と批判され失脚。林彪事件後の73年に毛沢東に再起用され復活したが,76年4月の天安門事件の黒幕と目され全職務を解任された。 毛沢東の死後,四人組が逮捕され,77年に復活し,78年12月の党第11期3中全会で現代化路線への歴史的転換をはかり,改革開放政策を推進。その思想は生産力論を基礎とした「白猫黒猫論(実利主義)」と「実事求是(経験主義・漸進主義)」を特徴とする。(出典: 角川書店『世界史辞典』電子版) 8
「改革・開放」路線の真髄 改革開放とは、中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。 毛沢東時代の大躍進、文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、現実派の鄧小平は「四つの近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試みる。基本原則は先富論に代表されるように、先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよいという考え方である。 9
「経済特区」と中国の経済的発展 経済特区とは 中国で、外国の資本・技術の導入などのために設定した特別区域。経済特別区ともいう。1979年に広東省の深圳(シンセン)・珠海・汕頭(スワトー)および福建省の廈門(アモイ)に,88年に海南島(海南省)に設ける。ほかにもこれに準じた区域を沿海都市などに設定。(出典: 『広辞苑』) 10
鄧小平の日本訪問と「四つの現代化」路線の具現化 1978年10月26日、鄧小平一行は新幹線で古都・京都を訪れた。この時、鄧氏は随行記者団に「新幹線に乗ってみると、前進をせかされている感じがする。我々は今こそ、前進しなければならない」と述べたという。 11
「改革・開放」政策の成果 これまでの30年間,すでに4億の中国人が貧困から脱出できた。これは過去100年間世界中脱貧困総人口の75%を占める。 「改革・開放」以来,中国はわずか30年の時間内,ヨーロッパが200年をかけて歩んできた工業化・都市化および社会改革の道を歩んできた。 2007年,中国の世界経済に対する貢献は初めてアメリカを抜いて世界一位となった。同年,中国は世界最大の食糧・エネルギー・工業製品の消費国となった。 12
その後の日中関係:こんなにも密接的になってきた ◆中国における在留邦人数:9万9,179人(04年、香港を含む) →日本の海外在留邦人数(約96万人)の10.3% ◆中国への進出企業数:3万1,855社(04年末累計企業数、中国側統計)→在中国の外資企業数(50万8,941社)の6.3% ◆日系企業による中国国内での直接・間接雇用創出数:920万人 (2005年4月23日付人民日報(薄煕来商務部長発言)) ◆日系企業による中国への納税総額:約59.2億ドル(同上) →中国における納税額(約2,919.7億ドル)の約2% ◆日中貿易総額:1,893.9億ドル(05年、香港を除く)(JETRO統計)→香港を含めた額(2,271億ドル)では、日米貿易総額(1,993.7億ドル)を超過 ◆対中直接投資総額:65.3億ドル(05年実績、中国側統計) →累積投資額は468.4億ドルで、国としては米国(480.2億ドル)に次いで第2位 ◆人的往来:約417万人(05年)(日→中:約339万人、中→日:約78万人)→米中間の人的往来(約175万人)の約2.3倍(04年の数値を比較) ◆日中間の留学生:約13万人(04年) (日→中:約2万人、中→日:約11万人(就学生を含む)) ◆日中間の友好姉妹都市:314組(34都道府県、241市、39町村) 13
その後の日中関係:政治関係 14 1972年9.29 日中国交正常化実現(日中共同声明発表) 1972年9.29 日中国交正常化実現(日中共同声明発表) 1973年1.11 在中国日本国大使館開設 2.1 在日中国大使館開設 1974年1.3 大平外相訪日 1.5 日中貿易協定調印(於北京) 9.29 日中間定期航空便正式就航 11.13 日中海運協定調印(於東京) 1975年8.15 日中漁業協定調印 1978年8.12 日中平和友好条約署名調印(於北京) 10.22 トウ小平副総理来日 10.23 日中平和友好条約批准書交換(於東京) 1979年12.5 大平総理訪中 12.9 日中文化交流協定調印(於北京) 1980年 5.27 華国鋒総理来日 12.3 日中閣僚会議(~於北京) 1982年 5.31 趙紫陽総理来日 9.26 鈴木総理訪中 1983年 11.23 胡耀邦総書記来日 1984年 3.23 中曽根総理訪中 4.27 佐々木民社党委員長訪中 8.30 李鵬副総理来日 9.10 日中友好21世紀委第第1回会合 1985年 10.23 中曽根総理、趙紫陽総理会談(於ニュー・ヨーク) 1986年 11.8 中曽根総理訪中 1988年 8.25 竹下総理訪中 1989年 2.23 銭其シン外交部長、国家主席特使として大喪の礼参列のため来日 4.12 李鵬総理夫妻来日 1991年 8.10 海部総理、中国・モンゴル歴訪 1992年 4.6 江沢民総書記訪日 10.23 天皇皇后両陛下御訪中 1993年 11.19 日中首脳会談(細川総理・江沢民主席) 1994年 1.8 羽田外相訪中 2.23 朱鎔基副総理訪日 3.19 細川総理訪中 1995年 4 喬石全人代委員長訪日 5.2 村山総理訪中 12 河野外相訪中 1997年 9.4 橋本総理訪中 14
「アジアの相互理解と相互信頼」の時代への心構え 「アジア理解」のおすすめ アジア留学のおすすめ アジア観光のおすすめ 異文化理解へのおすすめ 留学生と仲良くしましょう 「アジア共通の歴史教科書」は可能か? 写真展「ともに築こうス和と繁栄-中国と日本60年の歩み」 において,2005年7月28日,東京にて 15
期末テストについて 実施日時:7月23日(火)3時限目授業時(場所は415教室) 制限時間:1時間(一人分ずつ空けて座る) 設問パターン:問一、事件名・人物名・歴史事象などの簡単なまとめ、5問、各100字以内、各10点。問二、小論文、指定された2問から1つを選んで300-500字の小論文をまとめる。 持ち込み可のもの:配布プリント、自筆ノート(コピー不可)、サポートHP資料,筆記用具 http://www.cuc.ac.jp/~zhao/asia_history.htm 独自の見解や感想を重視。 16