場の言語学の展開 ―西洋のパラダイムを超えて― 日本認知言語学会第17回大会ワークショップ(2016.9.10 明治大学中野キャンパス)
本ワークショップの目的 西洋で作られた言語学のパラダイムを超えた、日本か ら発出する場の観点からの言語学のパラダイムを提 起する。 場の言語学の、最近の具体的な展開、実証的研究を 明らかにする
西洋の言語学のパラダイム 主客分離(主語中心、自己中心)、個物と因果関係の パラダイムー近代科学、近代哲学の根底にある 構造言語学、生成文法、形式意味論…客観主義 認知言語学…意味を生み出す(認知)主体の復権。経 験基盤主義。身体性に基づく言語学。 ―単なる主観主義ではないが、やはり、主客分離の前 提に立つ。(動力連鎖、最適観察構図)
場の言語学のパラダイム 主客非分離、場における相互作用のパラダイム 主観的・客観的→場内在的、場外在的観点 主語・主体中心→述語・場所中心 個物と因果関係(動力連鎖)→場における相互作用
本ワークショップの構成 10:10-10:35 第1発表:「場の観点から言語の主観性を再考する」 岡 智之(東京学芸大学) 10:10-10:35 第1発表:「場の観点から言語の主観性を再考する」 岡 智之(東京学芸大学) 10:35-11:00 第2発表:「ナラティヴディスコースの「科白」部分に見られる 視点の内在性:「場」の共有に基づく事態把握の 獲得について」 櫻井千佳子(武蔵野大学) 11:00-11:25 第3発表:「フットボール・ストーリーと場の理論」 多々良直弘(桜美林大学) (5分休憩) 11:30-12:00 ディスカッサント: 大塚正之(早稲田大学) 12:00-12:20 質疑応答・ディスカッション
場の観点から言語の主観性を再考する 本発表の目的 認知言語学で言われる言語の主観性について、場の観点から再考。 日本語の「主観性」の指標とされている現象は、「主観性」の指標とい うより、「場内在的」か「場外在的」かという場の観点から説明できる。 3人称述語や現象描写文は、「場内在的」でありながら、発話の場の内 部から外部の事態を描写する仕方(事態外在的)である。 「主観性(主体)の言語学」から「場の言語学」への発想の転換を提案。
日本語は主観的な言語か? ―日本語における「私」 日本語は主観的な言語か? ―日本語における「私」 「事態把握の2つの基本類型」(池上2011) 主観的把握:話者が問題の事態の中に自らを置き、その事態 の当事者として体験的に把握する。 客観的把握:話者は問題の事態の外にあって、傍観者ないし 観察者として客観的に事態把握をする。 問題点: 事態の体験的把握=主観的=自己中心的か
「雪国」の冒頭の文再考 (1) 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 (1) 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 (2) The train came out of the long tunnel into the snow country. (列車は長いトンネルから雪国に出てきた。) (3)(列車が/ 私が/ 島村が/ 私たちが ) 国境の長いトンネルを抜けると、 そこは 雪国であった。 (1)は、個人の主観的体験を述べたものというより、場に起こる事態をありのままに描写したもの。 「主体」はどうでもよい。場内在的観点、場中心的な捉え方。主客融合。 (2)は、全能の語り手が、場の外から事態を描く仕方であり、場外在的観点。主客分離的捉え方。 永井(2006) の指摘…雪国の冒頭の文は「ある人物がたまたま持った経験を述べた文ではない」 「もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのこと 自体が「私」なのである。だから経験をする主体は存在しない。西田幾多郎の用語を使うなら、これ は主体と客体が分かれる以前の「純粋経験」の描写である。」
場中心的か自己中心的か (4)ここはどこですか? ―「場所」がどこかを問うている。=場中心的。 (4)ここはどこですか? ―「場所」がどこかを問うている。=場中心的。 (5)Where am I ? -「私」がどこかを問うている。=自己中心的。 ? ?
「私」は、「主体」ではなく、「場所」である (6)雷鳴が聞こえる。 (7)稲妻が見える (6)’ 「雷鳴が響き渡っている―取り立てて言うなら私において」 →「私」は主格ではなく与格で現れる。取り立てて言わなければ、 私など存在しない(無である)。(永井2006) 「雷鳴が響き渡っている」という出来事があるだけである。あえて 言えば、「私」はその出来事が起こっている「場所」である。日本語 では、主客合一(主客非分離)の純粋経験を言語化しうる。
→「私」のゼロ化が「主観性」と結びつくのではなく、その言語 表現においては、文字通り「私」という主体は存在しない。 ★ 日本語は、場における事態をありのままに表現する言語 であって、個別的な「私」の主観的体験を述べる「主観的言 語」なのではない。
内的状態述語の人称制限と「主観性」 従来の議論 日本語の内的状態述語は<1人称>に限られる。 (私は)暑い。 *あなたは暑い。 *彼は暑い。 (私は)暑い。 *あなたは暑い。 *彼は暑い。 →感情・感覚は私秘的なものだから →<1人称>= 「私」を中心とした自己中心的な体系 →内的状態述語の人称制限は日本語の「主観性」の指標だ。 →一方、英語には人称制限はないので、「客観的」である。
日本語で人称論は成り立つのか ー視点と人称論(金谷2004) 神の視点 虫の視点 日本語に人称代名詞はない 場における個々の関係により呼称は決まる 親族呼称、一人称の二人称への転用等 → 場外在的観点 場内在的観点 彼/ 彼女? you I s/he あなた? 私?
体験は場において共有できる 感情・感覚は、私秘的な体験であるという前提が問題でないか。 (8)(戸外で誰かと会った時の会話) 感情・感覚は、私秘的な体験であるという前提が問題でないか。 (8)(戸外で誰かと会った時の会話) 話し手: 今日は暑いですね。 聞き手:暑いですね。 → 同じ場における体験の共有を確認。「暑い」は、いま、ここの場の状況を表す 「場の文」。自他は場に埋め込まれて体験を共有。 → 感情・感覚の体験は私秘的なもの、「私」に限られるものでもない。 (9)(同じチームで試合に勝ったとき) A: うれしい! B: うれしい! → (オリンピックで)応援していたその場にいた人も、あるいはテレビで応援した 人もすべて同じ感情を共有できる。
場の理論からの感情・感覚モデル ―「自己の卵モデル」+「氷山モデル」 「自己の卵モデル」(清水2003): 自己中心的領域(核)…感情・感覚を感じる主体 「局在的自己」(黄身)の「局在場」 (身体場あるいは情意場) …個別的な感情・感覚が起こる場所。 「遍在的自己」(場所的領域:白身) …自他は場が共有されることによって (白身が融合するように)、 感情・感覚を共有することができる。
氷山モデル 意識下の「自己」と「他者」は、分離しているように見えるが、「場の共有」によってつながる。 もともと無意識下の「根源的な場」ではつながっている。=「自他非分離性」。 感情や感覚は場において起こり、場の共有により感情・感覚も共有しうる。 個々があらかじめ分離しているという「自他分離」的見方では、他人の感情・感覚はあくま で私秘的であり、理解できないものになる。(「他者理解」のアポリア。Cf.「心の理論」) 意識下 自己 他者 (場の共有) 無意識下=根源的な場
日本語における内的状態述語(感覚・感情)は、「私」という場所で起こっている出来事で ある。 それは私秘的な「主観的」なものというより、場が共有されることによって、共有可能にな る。 いやそもそも根源的な場では、つながっているものである。
3人称述語と現象描写文 なぜ3人称では、内的状態述語の直接形が使えないか。 (10) a. *太郎は寒い。 b. *彼はうれしい。 (11) a. 太郎は寒そうだ。 b. 彼は寒がっている。 c.彼はうれしそうだ。 → 同じ発話場にいる話し手、聞き手は、自他非分離であり、場において体験(事態)を共 有しうる。が、発話場の外側にいる人(3人称)は、体験を共有しないで、観察の対象となる。 「ている」は、事態を外側から描写する表現。「そうだ」は、事態の様相を描写する表現。 → 現象描写文と同じ構図。発話の場の外の領域(「あ」)。共同注意の構図。 (12) a. 太郎が走っている。b. 雨が降っている。 c. バスが来た。
現象描写文1 現象描写文2 ラレル文 雨が降っている 外では、雨が降っている。 雨に降られた。 (場内在的、事態外在的) (場外在的、事態外在的) (場内在的、事態内在的(体験 的))
日本語の「主観性」の指標 →場中心的体系の指標 <1人称>対<2,3人称>の構図(自己中心的な体系) 「私」が中心ー主体が中心。主観的 → <コ>対<ソ>、<コ/ソ>対<ア>(場中心的な体系)「今、ココ」の場が中心 来る 行く くれる あげる 「来る」は「ココ」に入る。「行く」は「ココ」から離れる。 「くれる」は「私のところ」に入る。「あげる」は離れる。 ・花子が(私、妹、父、部下、あなた、彼女に)プレゼントをくれた。 ア ココ コ ソ 話し手 聞き手
まとめ 「私」が言語表現されないこと=「私」を中心(原点)として事態が表現されている=主体化 →主体を中心とした捉え方 「私」が言語表現されないこと=事態は「私」(の視野、聴野、意識野、所有領域、情意領域、 能力領域等)において現れている。「私」は主体ではなく「場所」である。 →場所を中心とした捉え方。 事態を描写する観点として、場内在的観点と場外在的観点がある。 場内在的でかつ、事態内在的に語る場合と、事態を外在的に描写する場合がある。 主体と客体、自己と他者の対立を超える立場→場の言語学。 →実証研究の必要性