5月31日(金)5限 第6回「教育の道徳的側面~隠れたカリキュラム~」 道徳教育(他学部) 5月31日(金)5限 第6回「教育の道徳的側面~隠れたカリキュラム~」
前回の感想より① アマラとカマラを幸せにしたかという問いにはどちらとも言えないと思う。生活習慣を変えるのは苦痛だと思うし、愛情をもらって喜ぶのは幸せだと思う。生きる上で幸せなことも不幸なこともあるので、全体として幸せか不幸かは決められないのではないかと思う。シング牧師が道徳的かどうか以前に、生まれた子どもを放置して狼に拾わせる状況をつくっていることについて考えないのだろうか。子を捨てたり放置する方が非道徳的だと思う。人間を人間として育てることで何らか善い影響があると考えられるのならそうすべきなのかもしれない。善いことを決めるのは本人だ、という反論もあると思うが、子どもは(狼少女ならなおさら)そこまでの知性を備えていないので、誰かがある程度決めてやらねばいけない部分もあるだろう。(文学部) 神父は自分の行為が子どもたちを傷つけているということを考えなさすぎだと思った。でもやはり人間の仲間は人間だし、きっぱりと狼とは引き離してあげることが一番良い行為だと思う。その時に相手の気持ちを少しでも考えてあげることが大切だと思う。人間は皆いくら苦難があっても幸せを目指して生きていかずにはいけないものだと思うので、この二人の子どもは自分たち次第で幸せを感じる機会を得る可能性があったと思う。(園芸学部)
前回の感想より② 遺伝(肉体的に何の動物か)か環境(育ち)でいったら後者が優先されるべきだと思います。でもキリスト教の立場から考えれば人間を人間らしい生き方にするのは徳なのかもしれませんね。結局、徳って人によって意味が違うという結論に達する様な気がします。道徳って人間独自の面白いものだと思いました。(工学部) 極端だが、アマラとカマラの状況を自分に当てはめてみると、自分が本当は狼だが8歳になるまで人間として育てられ、いきなり狼として生活を始めるというようなことになると思う。いきなりまったく違う環境に連れてこられたらと思うとぞっとするし、何もできずにその場から動けずにいるだろう。なにより自分と違う種の生物と生きろと負われたら嫌悪感や違和感をとても感じる。そんなことをした人物を憎むだろう。そう考えるとごても道徳的なこととは言えない。だが、私を狼側へ戻そうとしているものはある意味正しいことをしているのだから、その行動を道徳的だと思っているだろう。あることが道徳的かどうかはそのことを考える人の立場によって変わるものではないかと思う。(園芸学部)
前回の感想より③ 幸せというものは後から感じるものだと私は思う。カマラを狼から人間に教育する際にはカマラにとって苦痛だったと読み取れるが、最後は幸せだったため、教育はカマラを幸せにしたと思う。また、カマラが人間の生活に慣れるために大きな影響を及ぼしたのはシング夫人の愛だったと思う。教育には教育する相手への愛が必要なのだと感じた。(園芸学部 緑地環境学科) 今日感じたことは何を話していても最終的には「道徳とはなにか?」、「幸せとは何か」などの言葉の定義を問うことを帰着することです。そしてその定義もまた曖昧であり、自分としては確かな答えを導き出す気は全くありませんが、答えを導き出すのは困難です。しかし、答えを導き出せないことに道徳教育のよさや本当の意味があるのではないかとも思いました。答えを導き出せないからこそ、他人の意見にも耳を傾けることができると思います。人は自分が正しいと思う傾向がありますが、道徳がそれらを打ち砕いてくれるのではないかと考えます。余談ですが、私は今人を許すことにチャレンジしています。人を許すことは意外に難しく、しかし人を許すことができたならば人として成長できるのではないかと思います。(園芸学部)
前回の感想より④ 教育すること自体は「社会的」には良いことだと思う。「道徳的」には・・ノーコメント。生まれたばかりの子どもは「欲しいもの」をもらうと同時に段々洗脳されていくように思う。その洗脳が解けかけたころが「あれは何?なぜ?どうして?」を繰り返すようになり、だんだん自分で考えられるようになっていると思っている。(園芸学部 応用生命化学) すごくいい視点だなと思ったのが、「牧師はアマラとカマラを見つけたけど、狼的な生活の方がいいんじゃないか、と考えて見過ごしてたらどうなのか?道徳的なのか?」というものでした。最初は牧師がペットのように実験体を扱っているようで、この行為が善くないと思っていた。でも見逃していたらああいう生活もあるんだろうなと思っていたら、皆牧師を攻めていたんだろうと思います。牧師は見つけたときから難しい決断を迫られていたのだと思いました。どのような選択が道徳的だったか、人によって違ってしまいそうだと思います。(文学部) シング牧師がアマラとカマラにしたことが道徳的にいいことか悪いことかは言えないと思った。なぜなら道徳とは(辞書によると)「人が自発的に正しい行為をするように促すこと」の内面的原理だからである。具体的に言うと、アマラとカマラは強制的に人間社会に適応させられたので、そこに自発性はない」ということである。(理学部)
前回の感想より⑤ 牧師は日記の中で行為や愛情、愛着という言葉を多用している。また、「人間的本能」という言葉や「成長」、「社会」、「新しい」、「知」というような言葉を繰り返し用いている。さらに全体の主旨として愛情に基づく教育がヒトを人間たらしめると示しているようだ。以上からシング牧師はとても「愛情」深く、人間の生得的人間性を信じている人だと推察する。こうした西洋キリスト教的愛と日本的慈悲、愛情と恋情、動物的好感と人の好感は同じではないだろう。お互いの向ける感情やそれに裏打ちされる行為は違い、求めることも違う。感情の有無すらも違うかもしれない。互いの違いを念頭に置き、自制を心がけ、よりよい互いのすり合わせを追求することが人間的幸せを追うために必要と思う。(文学部) 「人間らしい教育をしたから感情が生まれたのでは?」という意見があり、そこから発展して動物には幸せという感情はあるのだろうか、ないとすれば幸せを感じることができるようになったという点で幸せなのではないかと思いました。話しているうちに幸せとは何だろう?という問いが生まれたので訊いてみると、「好きなものや、やりたいことがある」と応えてくれた人がいました。カマラはやりたいことができてきっと幸せだったのではないかということでした。シング牧師はキリスト教を信仰していて、キリスト教の信条というようなものを強く感じました。私(たち)は無宗教で強く信仰する存在がないため、シング牧師のこうした強い使命感を持った行動というのを理解しづらく感じるのかなと思います。「自分の信じないものを信じる人もいる」ことを上手くわかれればいいなと思いました。(理学部)
前回の感想より⑥ なぜ教育を行わねばならないのか。その点を考えるにあたっては被教育者の幸福を考慮せねばならないのか。私は彼らの幸福を考慮してはならないと考える。第一に、彼ら自身、自らの幸福の度合いを考えきれていない。第二に、教育そのものによって彼らの幸福のあり方が変わるからであろう。今回の条件を含めて、各個人の感性を越えた立場で教育を語らねばならないだろう。(文学部)
隠れたカリキュラム 今日のテーマは学校の中で直接教えられずに学んでいること。 学校で子どもが学んでいることは、教師が意図的に教えようとしていることばかりではない。 教師の意図を超えていて、子どもにとっても無意識的に学ばれていることがある。 その中で、学校教育という制度によって要求される教室での生活がもたらす、子どもの社会化(社会に適応させること)の機能を果たすものをアメリカの教育学者のフィリップ・ジャクソンはhidden curriculum(隠れたカリキュラム)と名づけた。 隠れたカリキュラムは、子どもに産業化された社会におけるふるまい方、対人関係のあり方などを無意識の内に学ばせる機能をもっている。つまり、隠れたカリキュラムには善くも悪くも道徳的な意味があると考えることができる。
Philip Jackson “Life in Classrooms” 教室の中で日常的に行われていること、当たり前になっていることの中にどんな意味があるかを考える。 そのために、教師や子どもたちの学校生活をつぶさに観察し、そこで行われていることが子どもや教師にとってどのような意味をもっているかを解釈する。 教室での生活で行われることの一つひとつは何気ないことだが、それが繰り返されることにより、子どもは(多くの場合、無意識的に)学校の中で正しいとされる振る舞い、評価を得るために求められることなどを学んでいる。 家庭と社会の間に位置する学校で学ばれる隠れたカリキュラムは、社会生活で求められることを代弁する側面がある。
日常的な行為に潜む意味 教師も、子どもも、親も、学校について聞かれると、学校の日常ではなく、特別なことに目を向ける。(ex 学校行事、テストで100点を取ったこと、子どもの問題行動について) しかし、学校で日常行われている何気ないこと(ex 授業中や学校生活の規則、教師と子どもの日々のやり取り)にも大きな意味があり、そこに目を向ける必要がある。 なぜなら、日常的な行為は子どもが学校生活を送る中で日々繰り返され、何百万回という単位で繰り返し行われるから。 隠れたカリキュラムは、このように何気なく繰り返される日常的な行為の中にこそある。
学校は監獄や精神病院に似ている? 学校という場所の制度的特徴を考えていくと、実は監獄や精神病院と似た性質があることに気がつく。 学校は望むか、望まないかにかかわらず、行かなければならない、数少ない場所の一つ。 学校で過ごすことは子どもにとって基本的には避けられないことであり、子どもは学校が彼(女)に求めるものと、自分の欲求とに折り合いをつけることを学ばなければいけない。
隠れたカリキュラム① 群れ(crowd)の中で生きること 子どもたちが集団で生きる教室の中で、教師は好むか好まないかにかかわらず、社会的な交通整理の役を担わされている(ex 誰が話し、誰が話さないかを決める、資源の分配、教室の役割分担の割り当て、タイムキーパー)。 子どもはその中で「待つこと」を(ex 話す順番、宿題を見てもらう順番)学ぶ。「待つこと」は時に子どもにとって意味があるが、時に無駄に待たされることもある。 時間で動くことを学ぶ。これは時に、子どもの興味が乗る前に活動が始まり、興味が消える前に終了することを意味する。 子どもは時に、群れの中で一緒に過ごす人を無視して、一人でいることを求められる(ex 個人作業の時、教師が話している時)。隣の人に話しかけたくても話しかけてはいけないことがある。 総じてこれらのことは、子どもに「辛抱強さ(patience)」を求める。「~すること」よりも「~しないこと」を学ぶ。行為と感情を状況に応じて切り離すこと、欲求の表現とそれを抑制することとのバランスを学ぶ。
隠れたカリキュラム② 評価し、評価されること 子どもが自分の特性について評価を受けるのは、学校だけに限らない。しかし、学校での評価は他の場所にはない特殊な特徴をもっている。 テストでの評価は学校における評価の代表的なものだが、それだけに尽きない。この他に、少なくとも①学校という制度が期待することにどれだけ適応しているかの評価、②人格的な特性の評価、という二つの評価がある。 評価の主体は教師だけではない。クラスメートも評価に参加する。また、子どもによる自己評価もある。子どもは他者に評価されるだけではなく、自分も他者を評価することを学ぶ。 評価は必ず価値を伴う。従って、評価をする人や評価が行われる教室によって、いい評価、悪い評価が異なる。教師とクラスメートの評価が矛盾することはよくあること(ex 教師にとってはいい子でも、仲間からは教師に媚を売ってると見られる)。 子どもはよい評価を獲得し、悪い評価を避けること、よい評価を公に示し、悪い評価を隠すこと、教師とクラスメートの両方からいい評価を得ようとすることを学ぶ。また、時に評価に対して無関心になり、感情的に距離を取るようになることもある。
隠れたカリキュラム③ 不平等な権力関係 子どもが生まれてから最も早く学ぶものの一つが他者の願いにいかに従うかということ。子どもは物心が着く頃には、大人の権威というものの存在を学ぶ。 子どもは、学校の教師より前にも親の権威に直面するが、両者は性質が違う。 親との関係が親密で長く続くが、教師との関係は親に比べると親密さに欠ける。教師は相対的なストレンジャーとして子どもに権力を行使する初めての人。 親の権威は「~しちゃ駄目」という形で表現される(危険な衝動の制限)ことが多いのに対して、教師の権威は「~してはいけない」と同じ程度に「~をしなさい」という形でも表現される。 教師は子どもが人生で出会う初めての「上司(Boss)」。学校でgood workerになることは、子どもが卒業後に工場やオフィスでgood workerになることにもつながる。 しかし、誰もがgood workerになれるわけではない。自己嫌悪を感じながら教師にゴマをする子どももいれば、教師の権威から距離を取ることでトラブルを避けようとする子どももいる。
隠れたカリキュラム まとめ① 隠れたカリキュラムはそもそも隠れてはいなかった。近代の学校教育の成立当初は、より明示的に学校で社会的な道徳や価値観の伝達が目指されていた。 隠れたカリキュラムが隠れるようになったのは、上記のような目的が自然に達成されるようになったから。現在では、隠れたカリキュラムは子ども一人ひとりの人格形成や能力の開発といった目的の陰に隠れながら機能している。 隠れたカリキュラムとオフィシャルなカリキュラム(ex 数学、理科、社会)は学校の中で一体になっている。 オフィシャルなカリキュラムよりも隠れたカリキュラムの方が、子どもの困難や問題につながっていることが多い。学業の問題に見えることが、隠れたカリキュラムの学習の失敗に原因をもつこともある(ex 数学の時間に「やる気がない」子どもは数学が嫌いなのではなく、隠れたカリキュラムに反抗しているのかもしれない)。
隠れたカリキュラム まとめ② オフィシャルなカリキュラムと隠れたカリキュラムが両立するか、矛盾するかという問題に共通の答えはないが、個々の場面で考える必要がある問題である。 隠れたカリキュラムは自分の欲求を表現することと、他者の願いに従うこととのバランスを求めるもの。これは、学校の外での生活に直結している。幼稚園の入学から子どもは「会社(The Company)」での生活がどのようなものかを学び始めている。 隠れたカリキュラムへの対応は人それぞれ。従順にそれを受け入れる子どもいれば、明確に反抗する子ども、心理的にそこから距離を取る子どももいる。 隠れたカリキュラムの存在は学校という制度の中で生きる以上、ある意味では避けられないもの。教師はその存在を自覚した上で、自分が追求する教育や、子どもの幸福のために何ができるかを考え、実践していく必要がある。
グループワーク みなさんは、隠れたカリキュラムを学んだと思いますか?隠れたカリキュラムに対してどのような態度を取りましたか?ジャクソンが挙げたものとは違う隠れたカリキュラムを思いつけますか?隠れたカリキュラムはみなさんの人格形成にどのように影響したでしょうか? ジャクソンは、隠れたカリキュラムを学校という制度の中で生きている人がある程度共通に直面するカリキュラムだと考えています。教師が違えば、隠れたカリキュラムは変わるでしょうか?変わるとすればどのように変わるでしょうか?また、学校の中で直接教えられることなく、学んでいることの中には、隠れたカリキュラム以外にも教師一人ひとりが無意識に発しているメッセージがあると思います。それについても考えてみて下さい。 この授業の中で隠れたカリキュラムや、講師(吉國)が無意識に発しているメッセージがあると思ったら教えてください。 その他、考えたことを自由に話し合ってみて下さい。
感想シート y_yoshikuni@chiba-u.jp http://moral-education.seesaa.net/ 今日の授業の中で考えたこと、疑問や質問、グループワークの中で話し合ったこと、授業に対する要望、なんでもかまいません。 必ず、名前、所属、学籍番号を書いて出してください。(所属は空きスペースに分かるように書いてください) 授業中に伝えきれなかった質問、意見はメール、もしくはブログを利用してください。 y_yoshikuni@chiba-u.jp http://moral-education.seesaa.net/
参考文献(前の分も合わせて) 第四回(5月18日) 津守真 『子どもの世界をどう見るか-行為とその意味-』 NHKブックス 津守真 『保育者の地平』 ミネルヴァ書房 第五回(5月25日) J.A. L.シング(中野善達・清水知子 訳) 『狼に育てられた子ども』 福村出版 西平直 『教育人間学のために』 東京大学出版会 第六回(今日) Phillip Jackson Life in class rooms. Teachers Colledge Press