日本語の「は」とスペイン語の接続法 04673098 野村研究室 メディナ マヌエル
冒頭 スペイン語は、日本語においての機械翻訳の面から、今まで余り研究されていない。 スペイン語の時制は数が多いため、日本語からスペイン語へ翻訳するときに、時制の判断は難しい課題である。 接続法は日本語にない為、特に苦労させる 私は彼があそこまで行ったと思う。 私は彼があそこまで行ったと思わない。
論文紹介 日本語の「は」とスペイン語の接続法 上田博人 東京大学日本語学
発表の手順 冒頭 対比の「は」 「・・・と思う」、「・・・とは思わない」 スペイン語の法 接続法 日本語の「は」 日本語とスペイン語の評価文 引用の「とは」 まとめ 発表者の研究 今後の目的
対比の「は」 日本語の「は」が主題を示し、それが2つ現れた場合は、最初の「は」が主題を、2番目の「は」が対比(対照)を示すことは知られている。 (1a)兄はスペイン語は学んでいます。 (1b)兄はスペイン語は学んでいますが、フランス語は学んでいません。 日本語の「は」が主題を示し (1a),それが2つ現れた場合は,最初の「は」が主題を,2番目の「は」が対比(対照)を示すことが知られている (1b) 「対比」の意味は,上の (1b) のように対比される文が続くと明示的になるが,次のように,それがない場合には「非言語的コンテキスト」が必要になる。
対比の「は」 非言語的コンテキスト 私はタバコは吸いません (タバコを吸うだろう) (2a)兄はスペイン語は学んでいます。 (2b)兄はスペイン語は学んでいません。 非言語的コンテキスト 私はタバコは吸いません 久野 (同所) によれば,孤立した文としては (2a) のような肯定文よりも (2b) のような否定文のほうが坐りがよい。その理由は,「非言語的コンテキストが通常 positive であり,このような否定文が,positive な非言語的コンテキストと比較対照されているからである」と述べている。他方,(2a) のような文が坐りが悪いのは,negativeな非言語コンテキストが稀であるからである。久野の例は「私はタバコは吸いません」であるが,このように言うのは,たとえばタバコを差し出されたとき,「タバコを吸うだろう」という非言語コンテキストと対比されている,と考えられる。 (タバコを吸うだろう)
(私はシャワーでは我慢できます)が、熱い風呂などでは我慢できません 対比の「は」 子供たちはカレーは作っています。 子供たちはカレーは作っていません。 私はシャワーでは我慢できません。 私はシャワーでは我慢できます 坐りが悪い 野田 (1996) には次のような例 (一部簡略化する) が説明されている。 1. 子供たちはカレーは作っています。 2. 子供たちはカレーは作っていません。 3. 私はシャワーではがまんできません。 それによれば,1 のような肯定文は「強い対比がある特殊な文だと感じられる」。一方,2のような否定文には,「カレーは作っていないが,ほかのものは作っている」という対比的な意味はあるものの,1 のような肯定文で使われる「は」ほど,「対比的な意味が強く感じられないことが多い」。別の箇所 (p.214) で否定文での対比を扱い,たとえば 3 のような文について,否定文では肯定文を対比の相手を想定しやすいので対比の「は」も使われやすい,と説明している。逆に,肯定文は否定文を意識していないので,たしかに「私はシャワーではがまんできます。」では坐りが悪く,「(私はシャワーではがまんできます)が,熱い風呂などではがまんできません」という補足する明示的なコンテキストが必要になるだろう。 (私はシャワーでは我慢できます)が、熱い風呂などでは我慢できません
「・・・と思う」、「・・・とは思わない」 引用の「と」が付く文 対比の「は」が使われるのは否定文 坊っちゃん 我が輩は猫である 引用部 「思う」 「思わない」 「と」 183例 なし 「とは」 1例 11例 引用部 「思う」 「思わない」 「と」 398例 3例 「とは」 なし 25例 ここで取り上げたいのは,引用の「と」がつくタイプの例である。はじめに,日本語の文章を探索すると対比の「は」が使われるのは肯定文の文脈よりも,否定文のほうが圧倒的に多いことを指摘したい。たとえば動詞を「思う」に限って夏目漱石『坊っちゃん』の全文を調べると,次のような結果が得られた[1]。 [1] 『坊ちゃん』は短い作品なので,長編『我が輩は猫である』の全文も調べてみた。その結果は,やはり「…と思う」(398例)と「…とは思わない」(25例)のほうが,「…とは思う」(なし),「…と思わない」(3例)よりも圧倒的に多い。 このように頻度という面から見ても,対比の「は」にとって肯定文よりも否定文のほうが自然である。
清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。 不思議なもので三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。 十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。それにも関わらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。 延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。(・・・)名前を聞いてさえ、聞けた所とは思えない。 「とは思う」と「とは思わない」を比較する前に,それらにも増して圧倒的に多い「対比」のない「と思う」の文脈の例を見ておこう。 このように,「と」には「思う」が接続し,「とは」には「思わない」が接続するのが自然である[1]。
問。あなたは、原子力発電に対する情報についてどのように思われますか。 a. 情報が公開されている。 b. 知りたい情報を得られている。 c. 正確な情報を得られている。 d. 分かり易い情報が得られている e. 頻繁に情報が得られている f. 迅速に情報が得られている 1.そう思う。 2.ややそう思う。 3.あまりそうは思わない。 4.そうは思わない。 5.分からない。 [1] 現代日本語でも,たとえば次のような文脈で確認される。 「問.あなたは、原子力発電に対する情報についてどのように思われますか。 aからfまでの事柄のそれぞれについて、あなたのお考えに最も近いものを、次の中から一つだけ選び、その番号に○印をつけてください。(a.~f.について、それぞれ一つ選択) a.情報が公開されている b.知りたい情報が得られている c. 正確な情報が得られている d. 分かりやすい情報が得られている e. 頻繁に情報が得られている f. 迅速に情報が得られている 1. そう思う 2. ややそう思う 3. あまりそうは思わない 4. そうは思わない 5. わからない」 http://www.tohoku.meti.go.jp/koeki/isiki03/Q12.htm
事実ではないという話者の認知を表したり、話者の思考など主観的判断を表す法。言語によっては、条件法や仮定法と厳密に区別し得ないこともある インド-ヨーロッパ語で、表現内容に対する話し手の心的態度を表す動詞の語形変化 。 直説法 事実を事実として述べるもの。 10時制 スペイン語 どうして「と思う」,「とは思わない」の方が,「とは思う」,「と思わない」より多く使われ,また自然に感じられるのだろう。この現象の考察のために,先に見た「否定文が肯定文を意識する」という理由の他に,スペイン語学の立場からひとつの提案ができると思う。この問題に関係するのはスペイン語の法 (modo) の選択である。 接続法 事実ではないという話者の認知を表したり、話者の思考など主観的判断を表す法。言語によっては、条件法や仮定法と厳密に区別し得ないこともある 6時制
直説法が統語的な独立性をもつのに対し接続法の特徴は統語的な従属性である スペイン語の接続法 願望、感情、価値判断や疑惑・否定を表す述語に導かれる節では接続法をとる。 主節の意味が従属節の法を決める。 直説法が統語的な独立性をもつのに対し接続法の特徴は統語的な従属性である 作り出された「状況」を認める行為を言語化するのが直説法であるのに対し、接続法では「状況を引用するけれども、それへの関与を避けながら、それに対して評価や評言を加えるのが主眼である。 スペイン語の教科書や参考書などでは,「願望」,「感情・価値判断」や「疑惑・否定」を表す述語に導かれる節では原則として接続法をとる,と説明されている[1]。これは,主節の意味が従属節の法を決める,という見方である。つまり,接続法に独自の意味・機能を認めないで,その選択は主節の要素にゆだねられると考えられてきた。スペイン語の教科書や参考書の多くも,従属節に接続法を要求する主節のリストを挙げて学習者にこれを練習させている。 これに対しスペイン語学の研究者から,むしろ接続法には独自の意味・機能があることが主張されている。たとえば,高垣 (1984) は直説法が統語的な独立性をもつのに対し接続法の特徴は統語的な従属性である,と述べている。出口 (1997, p.115) は,作り出された「状況」を認める行為を言語化するのが直説法であるのに対し,接続法では「状況を引用するけれども,それへの関与を避けながら,それに対して評価や評言を加えるのが主眼である」という。和佐 (1999) は接続法節に「真偽判断保留」という特徴を認める。そして福嶌 (2000) は,日本語のモダリティの研究を応用し,陳述性の高い節を直説法,命題性の高い節を接続法とする提案をしている。 ここでは,それぞれの論旨の詳細を説明する余裕はないので,とりあえず接続法の本質として「事実性の判断(事実であるという判断)がなされていない内容(命題)」という特徴を認めた上で議論を続けたい[1]。 接続法節に「真偽判断保留」という特徴 事実の判断がなされていない内容
スペイン語の接続法 Admiro (私は感心する) que (接続詞) cantes bien (君が上手に歌う、接続法). 「君の歌が上手いのには感心するよ」 Es mejor (~の方が良い) que (接続詞) nos vayamos ya (私達がもう帰る、接続法). 「私達はもう帰った方が良い」 次は本稿で取り上げている「感情・価値判断の名詞節」の例である 1 と 2 のどちらにしても「君が上手に歌う」ことや「私たちがもう帰る」ことが事実であるか否かは問わず(事実性の判断をしないまま),その内容だけを問題として取り上げ,それについて「感心する」や「…したほうがよい」という評価がくだされている。このような文を仮に「評価文」と呼ぶことにしよう。 評価文
スペイン語の接続法 「Creer」(思う)動詞: Creo (私は思う) que (接続詞) viene (彼が来る、直説法). 私は彼がくると思う。 事実文 彼が来ることは確かだ No creo (私は思わない) que (接続詞) venga (彼が来る、接続法). 私は彼が来るとは思わない。 さて,creer「思う」の目的節は直説法の動詞を要求し,その否定形no creer「思わない」の目的節は一般に接続法を要求する(これの例外については後述する)。はじめに,Creo「私は思う」の例を見よう。このCreoの目的節のような直説法の節は「事実性の判断」の対象を示す。これを仮に「事実文」と呼ぶことにする。この「事実性の判断」は次のような文(やはり事実文)でも同じように見られる。 (8) Es cierto (確かだ) que (接続詞) viene (彼が来る:直説法).「彼が来ることは確かだ」 ところが,No creo の文では様子が大きく異なる。 (9) No creo (私は思わない) que (接続詞) venga (彼が来る:接続法).「私は彼が来るとは思わない」 この No creo の意味は,単なるCreo の否定,つまり「(あることを)思わない」というよりも,むしろ「…などとは」「思わない」という「節+コメント」という構造になっている。コメントの対象となるのがque 以下の接続法節で,事実性の判断がなされていない命題である。Creo「思う」の対象は新事実としての情報価値があるが,No creo「思わない」の対象は,もともと事実性の判断がないのだから新事実にはならない。新事実は,むしろ話者のNo creoというコメントのほうにある。これは,先のスライドでみた評価文とよく似た構造である。どちらも「節+コメント」ということで共通している。「評価」という用語の適応範囲を拡大させれば,このような「否定」によるコメントも評価の一種(「…などとは思わない」という否定的評価)と考えてもよいだろう。 節 + コメント
「(学生は訪ねては来なかった)が、メールで連絡してきた」 日本語の「は」 学生は訪ねては来なかった。 その音楽は美しくは感じられなかった。 その湖は美しくは見えなかった 事実文 評価文 事実文 評価文 「(学生は訪ねては来なかった)が、メールで連絡してきた」 視野的に「(美しく)見えない」 スペイン語の評価文で用いられる接続法と事実文で用いられる直説法の区別を概観した後で,日本語の「は」について考察を続けよう。 たとえば,次の例文を比べると,同じ否定文であっても「は」の対比の強さが異なるように思われる。 1. 学生は訪ねては来なかった。 2. その音楽は美しくは感じられなかった。 3. その湖は美しくは見えなかった。 1 は典型的な事実文なので対比性が強く,「(学生は訪ねては来なかった」が,メールで連絡してきた」というような文脈が必要になる。逆に,2 は評価文と解釈するのがふつうである。評価文ならば対比性はなく,この文だけで自然である。3 については,視覚的に「(美しく)見えない」という事実を示している,という解釈 (事実文) と,「湖が美しい」という内容について「そのようには見えない(同意しない)」の主観的な評価を与えているという解釈 (評価文) ができる。前者の解釈 (事実文) では対比性が強くなるので,「それではどう見えたのか」という補助すべき文脈が必要になる。一方,後者の解釈 (評価文) では本人の主観的評価であるので対比性は弱く,このままでも自然である。 それではどう見えたのか 「湖は美しい」 自然
日本語の「は」 十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。それにも関わらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。 そこで,(5a)「おやじを怖いとは#思わなかった」のような「とは思わない」で対比の意味が弱いのも,これが評価文であるためだとは考えられます。もちろん,これを無理に事実文のように解釈すれば,「ではどう思ったのか」という補助すべき文脈が出現するだろう。いずれにしても対比性が強くなるのは事実文 (の解釈) である。 対比の意味が弱い 評価文
日本語の「は」 肯定形「思う」(事実文)に「は」をつくと、対比性が強くなる。 「この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分からない。」 一方,肯定形「思う」(事実文)の引用節に「は」がつくと,ここでは対比の意味が強くなる。『坊ちゃん』の中で探してみると唯一次の例が見つかる。 (11) この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは#思ったがさてどうしていいか分らない。『四』 「思う」ということは対象となる内容の事実性を判定しているので,そのために「対比」の意味が強くなる。そして,節に対する評価文ならば自然に使われるのに比べ,対比の方は特別な使い方なので頻度も少なくなるのだろう。 思う 対象の事実性の判断 対比が強くなる
何らかの対象について否定的な評価を与えている 「とは思わない」 「と思う」 事実文 「と思わない」 評価文 「と思う」 事実性の判断を表す 何らかの対象について否定的な評価を与えている 「とは思わない」 「と思う」が事実文であり,「とは思わない」が (ふつうは) 評価文である,というのはわかりにくい議論かもしれない。たしかに「とは思わない」が主観的な評価であるならば,「と思う」も主観的な評価である,と考えるのも自然である。しかし,肯定の「思う」は事実性の判断を表すのに対し,否定の「思わない」が何らかの対象について否定的な評価を与えていると考えることによって,否定文における「は」の出現が自然であることと対比性が後退することが容易に説明できるだろう。
~と思わない 十分自然な日本語。 「坊ちゃん」の中には見付からない。 評価文として使われることが多い。 主観的な評価を示すとすれば、その評価の対象を問題として措定するために「は」が必要になる。 これで,「と思う」,「とは思わない」,「とは思う」のケースを見たが,組み合わせの最後の可能性「と」+「思わない」についてはどうだろうか。一見すると,これは十分自然な日本語である。それにもかかわらず,『坊ちゃん』の中には見つからない。これは,「思わない」が,先に見たように,評価文として使われることが多いためであると考えられる。主観的な評価を示すとすれば,その評価の対象を問題として措定するために「は」が必要になる。
日本語とスペイン語の評価文 1.¡Qué bueno (有り難い) que (接続詞) me llamaras por teléfono! (君が私に電話する、接続法) (福嶌訳)君が電話をかけてくれたとは有り難い! 2.¡Qué pena (残念だ) que (接続詞) lo hayamos perdido! (私達がそれをなくしてしまった、接続法) (福嶌訳)私達がそれをなくしてしまったとは残念だ。 3.¡Qué bueno (有り難い) que (接続詞) me llamaste por teléfono! (君が私に電話する、直説法) 実際,文法書で取り上げられるスペイン語の評価文の日本語訳には「とは」がよく現れる。 福嶌 (1995, p.339) は,1 ≒ 3、2 ≒ 4 のようにして,両者間には微妙な違いがあることを示している。その違いとは,本稿の論旨に沿っていうならば,3, 4 に直説法独特の「事実性の判断」があることだろう。日本語で訳し分けるとすれば,接続法は上の 1,2 の福嶌訳のように「とはありがたい・残念だ」となるのに対し,直説法は 3,4 の筆者訳のように「…であってありがたい・残念だ」となるだろう。 (筆者訳)君が電話をかけてくれて有り難い! 4.¡Qué pena (残念だ) que (接続詞) lo hemos perdido! (私達がそれをなくしてしまった、直説法) (筆者訳)私達がそれをなくしてしまって残念だ。
「思う」、「思わない」 No cree (彼は思わない) que (接続詞) vengan (彼らが来る、接続法) 彼は彼らが来ないと思っている No cree (彼は思わない) que (接続詞) vienen (彼らが来る、直説法) また,3,4 とよく似た現象がno creer「思わない」にも起こる。先でno creerはふつう接続法の節を要求することを見たが,実はこれが直説法をとることもある。福嶌 (同,p.341) によれば,「主節が否定文で主語が1人称以外の場合,話し手の視点を混入することがある」。接続法は「主語の視点のみ」を伝え,直説法は「(主語で示された人物は…と思わないが) 私はそう思う」という意味になる。 上の福嶌訳は同氏の説明を生かした訳としては正しいのだが,筆者のこれまでの議論を踏まえて両者の違いを訳し分けるとすれば,次のようになるだろう。 彼は彼らが来ないと思っている (が、実際に来る)
「思う」、「思わない」 彼は彼らが来るとは思っていない 事実性がない命題を評価の対象 彼は彼らが来ると思っていない 両者の違いは微妙であり,たしかに逆に 1,2 からスペイン語訳を正しく作れるという訳にはいかないだろう。しかし,1 の評価文における「…とは」が,事実性の判断がない命題を評価の対象としているのに対し,2 の事実文における「と」は,すでに事実であることが(話者によって)判断されていて,それを「彼が」信じていないという意味を担っている,と考えられる。 「と」は、既に事実であることが(話者によって)判断されていて、それを「彼が」信じていない。
「引用節+は」とスペイン語の評価文の接続法には共通の特徴があるように思われる。 引用の「とは」 風呂の数は沢山あるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壷で逢うとは極まっていない。 ご主人が先へ帰るとはひどい。 甚だ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ 最後に,『坊っちゃん』の中で,「思わない」という文脈以外にある「とは」の例を見よう。これらは典型的な評価文である。 これらは「…は…は」という構造ではないので,「…は」の部分を主題節と見なしてもよいだろう。 ここで,「とは」で引用された節の内容がスペイン語に直訳するならば接続法になることに気づく[1]。このことは,スペイン語では「とは思わない」というタイプの否定文に限らず,節の内容に何らかの主観的な評価を与えているとき接続法が使われ,それが日本語の評価文の「とは」に対応することを示している。 このように日本語の評価文の「引用節+は」とスペイン語の評価文の接続法には共通の特徴があるように思われる。 [1] 次はAntonio Ruiz Tinoco氏によるスペイン語訳である(太字の部分が接続法)。 (17a') Después de haber planteado un enigma de tantas conjeturas, y que venga ahora a estas alturas y diga que es una molestia descifrarlo, es de una responsabilidad impensable en un subdirector. (17b') Como hay tantos baños públicos, que llegue en el mismo tren no quiere decir que se vaya a encontrar en la misma tina. (17c') Que el señor vuelva antes es algo excesivo. (17d') Es extraño que diga que tanta responsabilidad se le hace muy cuesta arriba. これらの中で,que節が主節に先行している例ではque節の主題性をよく表している。 「引用節+は」とスペイン語の評価文の接続法には共通の特徴があるように思われる。
問題点 ¡Qué bueno (有り難い) que (接続詞) me llamaras por teléfono! (君が私に電話する、接続法) まだ起こっていない。願望を表す (福嶌訳)君が電話をかけてくれたとは有り難い! 君が電話してくれるといいね。 ¡Qué bueno (有り難い) que (接続詞) me llamaste por teléfono! (君が私に電話する、直説法) 動作は完了した (筆者訳)君が電話をかけてくれて有り難い! ¡Qué pena (残念だ) que (接続詞) lo hayamos perdido! (私達がそれをなくしてしまった、接続法) 「なくす」というのは昔だった (福嶌訳)私達がそれをなくしてしまったとは残念だ。 ¡Qué pena (残念だ) que (接続詞) lo hemos perdido! (私達がそれをなくしてしまった、直説法) 「なくす」というのは先起きたばかり (筆者訳)私達がそれをなくしてしまって残念だ。
問題点 Él cree (彼は思う) que (接続詞) no vienen (彼らが来ない). No cree (彼は思わない) que (接続詞) vengan (彼らが来る、接続法) 彼は彼らが来ないと思っている Él cree (彼は思う) que (接続詞) no vienen (彼らが来ない). No cree (彼は思わない) que (接続詞) vienen (彼らが来る、直説法) 彼は彼らが来ないと思っている (が、実際に来る)
「思う」、「思わない」 彼は彼らが来るとは思っていない 事実性がない命題を評価の対象 彼は彼らが来ると思っていない 「と」は、既に事実であることが(話者によって)判断されていて、それを「彼が」信じていない。
まとめ 文に2つの「は」が現れた場合、2つ目は対比を示し、対比される文は明示されなかったら、非言語的コンテキストは必要になる。 非言語的コンテキストはPositiveであることは普通であるけど、Negativeであったら文は坐りが悪い。 事実ではないこと、懇願、感情などを表す文は翻訳するときに基本的に接続法をとる。 「~とは」とスペイン語の接続法は共通点がある。
発表者の研究 日本からスペイン語への機械翻訳 両言語の文法:共通点と相違点 スペイン語にはあるが、日本語にない要素 機械翻訳からの観点 システムの開発 インターネット上で、両言語を活かすためのコミュニティーの開発
機械翻訳システムについて 第4版を開発中。 係り受け解析を基に、簡単な文をスペイン語へ翻訳する。 「文節」の概念も利用している。 モデルはNTTの 「ALT J/E」に類似したものを用いている。 動詞の数は増えた。 和西辞書と西和辞書の入れ込み (SYSTRANを介して英語からスペイン語へ翻訳)
接続法をとる表現 ~が必要です ~は不可欠です ~かもしれない ~は有り得る ~が有り得そうだ ~は有り得ない ~した方が良い ~は無駄です ~が都合が良い ~は当然です ~は重要です ~最も大事です ~は残念です ~が望ましい ~は驚きです ~は不可避です
接続法への翻訳:いつ? 卵を食べる人はここに並んでください。 People who eat egg, please line up here. Las personas que coman huevo, fórmense aquí por favor. Las personas que comen huevo, fórmense aquí por favor.
接続法への翻訳:いつ? 大阪市の空気を浄化するには、政府が様々な汚染物質の発生源を規制する必要があります。 不定詞 接続法 主語が明示されていなければ 不定詞 主語が明示されていれば 接続法 文脈解析は不可欠である
文脈解析 (私には)フランスから来た友達がいる。 (あなたには)フランスから来た友達がいる? どうやって判断すればいい? 何も知らないか、何も知らないふりをしている場合 誰かから聞いて、確かめたい場合。(情報を予め持つ) 接続法 直説法 どうやって判断すればいい?
文脈解析 ? 古の昔、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。 おじいさんは川に魚を獲りに行きました。 冠詞の判断
原文 訳文 No creí que mi hija quisiera estudiar en Estados Unidos. 私の娘がアメリカで留学したがっているとは思わなかった 検索 ? 「~とは」を使っている? 話題は前に言われた? 話者はこれについて何かを知っている? 何かの振りをしている? 決まり文句 見付からなかった 見付かった 判断 訳文 No creí que mi hija quisiera estudiar en Estados Unidos.
今後の課題 接続法が必要かどうかを正確に判断できる方法を詳しく研究する。 システムに埋め込み文の解析をさせる。 別の辞書を見付けるか、別の機械翻訳システムを使って日本語~英語の辞書から日本語~スペイン語の新しい辞書を作る。 インターネットでシステムを実験する。